生命倫理学は、医科学研究や保健医療に関わる倫理的・法的・社会的な諸問題に取り組む学問であり、近年のテクノロジーの発展にともない、その重要性が高まっている。京都大学の融合チーム研究プログラム―SPIRITS―の支援を受け、研究領域を横断した取組により現代の諸課題に対応し、かつ次世代の研究者の育成をも目指す生命倫理学のプロジェクトが立ち上がった。生命倫理学の役割や、課題は何であるか。プロジェクトの中心メンバーに聞いた。

生命倫理学、その成り立ち

 「生命倫理学(Bioethics)」は、文字通り、「生命(Bio)」と「倫理・倫理学(Ethics)」を結び付けた造語である。1970年代のアメリカで生まれた比較的新しい学問領域で、その代表的な研究機関の一つであるジョージタウン大学・ケネディ倫理研究所が編纂した『生命倫理百科事典』では、「生命科学と保健医療の道徳的諸側面の体系的研究。学際的環境においてさまざまな倫理学的方法論を用いる」と定義され、今日では人の生命、医学的側面が強調されている。

 プロジェクトリーダーである京都大学文学研究科の児玉聡准教授は、「次世代の生命倫理学を担う研究者を育てるための学際的な教育プログラムは、国内にはほとんど見られない」と指摘し、海外では、生命倫理研究センターや修士課程のコースを設置する大学や研究機関が増えている中、日本の研究の立ち遅れを危惧している。

児玉 聡 准教授(文学研究科)
児玉 聡 准教授(文学研究科)

 児玉准教授は、前任校の東京大学で、医療従事者・医学研究者、大学院生を対象とした生命倫理教育プログラムに約10年間携わってきた経験から、「京都大学を拠点とする領域横断型の生命倫理の研究・教育体制の構築」するプロジェクトを立ち上げるという考えにいたった。学部生・大学院生を対象の中心とし、学際的な素養を持つ生命倫理学の教育・研究を行える人材を育成することを目指すのである。

 生命倫理学は、「医療現場における医師・患者の関係」、「医学研究における研究者・被験者の関係」、さらに「新しい医療技術が社会にもたらす倫理的・法的問題」と、人の生命を取り巻く様々な問題を扱う。そのため、生命科学、医学、薬学、看護学に限らず、哲学、心理学、宗教学、文化人類学などの人文学や、法学、経済学、政治学、社会学をはじめとする社会科学の知見を集めることが求められる。

 児玉聡准教授は、生命倫理学の教育・研究は「学際的に行う必要がある」と強調し、その背景として、生命倫理学の誕生と発展を促した「患者の権利運動」、「医学実験の規制」、「臨床医療の技術革新」、「生命科学の発展と社会規制」という四つのきっかけを挙げる。

 「患者の権利運動」は、アメリカで1960年代から1970年代にかけて起きた様々な社会運動(黒人差別撤廃を訴える公民権運動、ベトナム戦争反対運動、女性解放運動)の流れを受けて、患者の意向を尊重しない医療のあり方を批判する形で起こり、医師から十分な説明を受け、理解した上で患者が同意する「インフォームド・コンセント(正しい情報を得た上での同意)」という概念を生んだ。

 リスク(危険性)とベネフィット(利益)を開示し、コンセンサス(合意形成)を取るという基本的な考え方は、医学実験における研究者と被験者の関係においても重要視され、その規制を促す素地を作った。また、医療技術の発展は、人工呼吸器の取り外し、脳死・臓器移植、出生前診断といった医療措置の選択を患者本人以外の関係者に委ねざるをえないケースを生み出し、判断基準や手続きを示したガイドラインの設定、それらを取り巻く法の整備が急がれることとなった。

創薬研究(基礎研究から臨床研究のイメージ) イラスト:田中麻衣子
創薬研究(基礎研究から臨床研究のイメージ) イラスト:田中麻衣子

 近年、生命倫理学は、「患者の権利運動」、「医学実験の規制」、「臨床医療の技術革新」といった医療の分野のみならず、ヒトゲノム研究、クローン個体作製、あるいは幹細胞研究を含む、生命科学(ライフサイエンス)の分野における倫理的・法的・社会的問題にも取り組むことが求められている。言うなれば、今だけでなく、これからの人の生命の在り方を議論・検討し続けることが求められる学問領域なのだ。

 とりわけ、人あるいは、幹細胞をはじめとするヒト由来の細胞や組織を用いる研究が適正に行われるためには、どのような手続や体制、そして教育が必要かを扱う「研究倫理」や、終末期医療や生殖補助医療など臨床現場における望ましいあり方を検討する「臨床倫理」の分野は、最先端の医科学研究を行い、超高齢化・少子化社会に備えなければならない日本においては、特に注力すべき領域であると言われている。

 プロジェクトのコアメンバーとして、がん医療や臨床研究などの「臨床」の現場を知る医学部附属病院の佐藤恵子准教授と、「研究」を支援する立場にあるiPS細胞研究所の鈴木美香研究員を迎えていることからも、国内の生命倫理学で対応すべき課題と向き合い、学際的研究をリードしながら、教育体制を構築するという狙いをうかがうことができる。

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