臨床、研究、政策の課題解決のために

 生命倫理学が対応すべき領域、すなわち、プロジェクトチームが研究・教育体制の確立を目指す領域は、臨床(医療)、研究(生命科学)、政策(ガイドライン)の大きく三つの分野に分けることができる。

 国立がん研究センターをはじめとする、臨床試験や終末期医療の現場を数多く経験してきた佐藤准教授は、「臨床における倫理的問題の解決には、まずはスペシャリストである医療従事者が主体的に動くべき」と語り、行政に任せ切るのではなく、現場に合ったガイドラインのモデル作りに意欲を見せる。

佐藤恵子 准教授(医学研究科)
佐藤恵子 准教授(医学研究科)

 70年代、アメリカを中心に生み出された「インフォームド・コンセント」という概念は、それまであった、患者のことを最もよく知るのは専門家である医師なので、患者は医師の決定に従うべきであるという「パターナリズム(医療父権主義)」に代わるものであったが、「説明/理解」と「合意」から成るその手続きが、日本の医療現場で義務付けられたのは、90年代に入ってからと大きく遅れた。

 ここで「倫理」という言葉を整理する必要があるかもしれない。「倫理」は「道徳」と同義とみなされることが多いが、個人が社会・人間関係の中で自然と身につける「道徳(moral)」に対して、生命倫理で使われる「倫理(ethics)」は、特定の公的な状況、例えば医療の現場における規範という側面を持つ。つまり「倫理」は、一定の価値基準による規則・対処法であり、「道徳」のように習慣的に身に付くものでもなければ、属人的に実践されるものでもない。

 だからこそ、佐藤准教授は、現場が中心となってガイドラインを示すべきだと主張する一方で、従うべき「一定の価値基準」を設定するためにも、哲学や倫理学をはじめとする人文科学系の知見は欠かせないと言う。例えば、終末期医療の場で、延命措置をいつまで取り続けるのかといった議論は、現場の人間の「道徳」に委ねるのではなく、日本人に固有の死生観や伝統・文化、患者を取り巻く人々の感情面への配慮を踏まえた「倫理」を検討しなければ完結しない。また、佐藤准教授は、アメリカではリテラシーの問題から口頭による説明と合意が行われることも少なくない「インフォームド・コンセント」も、識字率の高い日本で実践、普及させるのであれば、発展的に精度を高めることできるのではないかと、日本式「臨床倫理」の可能性を指摘する。

クローン技術も生命倫理における重要なテーマである イラスト:田中麻衣子
クローン技術も生命倫理における重要なテーマである イラスト:田中麻衣子

 「日本国内には、適切な研究審査を行える倫理委員や、審査ノウハウの蓄積が絶対的に不足している」と語るのは、iPS細胞研究所・上廣倫理研究部門の鈴木美香研究員だ。今日のES・iPS細胞技術を用いた再生医療に代表される最先端研究は、その実施に際して、各研究機関に設置された研究倫理委員会が審査を行う。しかし、「研究倫理」を検討する場においても、先に述べた「倫理」と「道徳」の混同は、少なからず起きているのではないかと、鈴木研究員は指摘する。つまり、多くの審査委員は、提出された書類をどういった基準で審査すれば良いか分からず、研究計画内容そのものの審査ではなく、書面上の言い回しや、表現など、慣習的に理解できる範囲のチェックに留まっているのではないかということだ。

 現在、鈴木研究員は、iPS細胞を用いた臨床研究に必要な倫理審査の手続きを含む、法令・指針の遵守に向けた研究支援活動を行っているが、かつて所属していた理化学研究所では、その業務遂行に求められる知識やスキルが広範囲に及ぶことを知り、臨床研究専門職として新たに学び直す必要があったと言う。また、プロジェクトリーダーの児玉准教授は、「個々の研究者に関しても、倫理教育を十分に行わなければ、研究不正や利益相反の問題が収まらず、国際的な研究の遅滞を招く可能性がある」と、生命倫理学における教育プログラム構築の重要性を説く。

 臨床、研究、政策と、生命倫理学が直面する課題に対応するためには、生命科学や医療に対する解決策等を提言し、実践するシンクタンクとしての研究センターの設立と、次世代を担う研究者育成のための学際的な生命倫理教育プログラムの実施、適切な研究審査のできる委員や、医療現場で起きる倫理的問題に対処できる倫理コンサルタントなどの人材育成が欠かせないと、児玉准教授は、研究・教育体制の構築の狙いを定めている。

 「京都大学を拠点とする領域横断型の生命倫理の研究・教育体制の構築」プロジェクトは、京都大学の融合チーム研究プログラム―SPIRITS―の認定を受けて活動している。児玉准教授、佐藤准教授、鈴木研究員の3名をコアとして、海外の研究者を含む20名を越えるメンバーが参加し、体制の構築に必要なネットワーク作りを積極的に行いながら、メーリングリストの作成による研究・教育リソースの共有、プロジェクトのホームページでの情報発信、海外研究者との国際ワークショップの実施、学内の院生、ポスドクに向けた生命倫理学の短期集中コースの準備など、様々なアクションを取っている。

 「各分野の専門家が集まって、それぞれの立場から理論を述べるだけではなく、思想や考えたことを研究や医療の現場で実践できる形にしたモデルを打ち出すことが肝心」であると、佐藤准教授は繰り返す。2000年代以降、ようやく国内でも生命倫理に関連する研究が本格化し、多くの機関や学会がそれぞれに倫理ガイドラインを作り始めたが、学際的な検討を重ね、現場で使える形になったものは、まだ数が少ない。生命科学の現場である研究機関と、医療の現場である附属病院の二つを併せ持つ総合大学が、生命倫理学の議論の活性化に果たすべき役割は大きい。

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