Reality —— 現実

 アメリカでの最初の成果が出版された1989年の冬、京都大学の求人情報が日本から舞い込み、駄目で元々と思って応募したところ、採用されて1990年8月に教養部の助教授として着任した。エール大学では専用の実験室を持ち、大学院生1名と技術職員1名とで研究を継続していた船橋は、帰国後、アメリカでの研究環境とのギャップに面食らうことになる。

 「『ここがあなたの部屋です』と紹介されたスペースはひとつの小部屋で、中には机とキャビネットがふたつ、書棚がふたつほどあるのみで、あとは何もない。専用の実験室はなく、もちろん実験装置は何もない。所属する教室で予算を工面してもらったが、使える金額は80万円くらいでした」

船橋は教養部の保健体育教室の保健担当教員として採用された。教養部の各教員には基本的に居室がひとつ与えられ、理系の教員はこれに加えて実験室をもっていたが、保健体育教室の教員にとっては運動場や体育施設が実験施設とみなされ、追加の部屋はなかった。船橋は生理学の実験研究者。研究スペースがなくては話にならない。さらに追い打ちをかけたのが、研究のために動物、しかもサルを使えないことだった。ラットやマウスを実験に使う教員はいたが、サルを研究に使用したいとする船橋は、教養部では極めて例外的な存在だったのだ。今まで一貫してサルを使った前頭連合野の研究を続けてきた船橋にとっては、サルの使用が可能な実験スペースの確保は死活問題だ。研究の実施が難しいと思われる現実に直面し、エール大学での研究生活が懐かしく思われた。「エール大学にもどらないか?」というGoldman-Rakic教授からの誘いには心が揺れた。しかし、かつての指導教員であった久保田教授の厚意により、京都大学霊長類研究所に実験スペースを確保することができ、授業のない週の半分は犬山での実験に取り組むことになった。

日本帰国直後の船橋教授(右から3人目)
日本帰国直後の船橋教授(右から3人目)

 多くの大学教員にとっての研究資金は、文部科学省による「科学研究費補助金」、いわゆる「科研費」だ。船橋は、自身の研究のため、科研費を獲得しなくてはならない。今までの研究実績が重要な評価ポイントである科研費では、実績のない研究計画では採択される可能性は低い。かといって、サルの実験が確保されていない状況では、サルを使った研究計画の申請はリスクが高い。犬山での実験として科研費を申請し、科研費を獲得することはできたが、京都での研究スペースの問題は解決されず、先送りしただけだった。

 霊長類研究所で研究を始めて5年ほど経った時、久保田教授が定年で退職されることになり、犬山での実験スペースの利用の継続が難しくなった。この間、1991年には教養部が廃止され、大学院人間・環境学研究科および総合人間学部が設立され、新たに研究科棟ができたことにより、京都で実験スペースを確保することができた。しかし、サルを使った研究の了解は依然として得られなかった。船橋は「もう切羽詰まった状態でした」と語る。このような状況の中で応募したのが、「さきがけ研究21」と呼ばれる、若手研究者を支援するために科学技術振興事業団(現、科学技術振興機構)が創設し運営していた事業であった。「幸いにも私の提案が採択され、研究計画についての事前打合せのため、東京に向かいました。そこで領域代表の先生からこう言われたんです。『船橋さんはサルを使う実験を提案しておられますが、サルを使った実験、できますよね?』」

 船橋はこう続ける。

 「そう問われたんですが、こちらとしてはできるかどうか答えようがなくて。それで『なかなか難しそうなので、サル以外の動物でやろうかと思うんですが、どうでしょうか?』と言ったわけです。そうしたら、打ち合わせ時に技術参事の方が『船橋さんにはサルを使っての研究をしてもらわないとダメです。船橋さんのサルの研究ができるように私の方では全面的にバックアップしますので、船橋さんもそのように努力してください』とおっしゃいました。それで『いやぁ、難しいかもしれないですが、とにかく努力してみます』と答えました」

 技術参事の「可能な限り支援する」という言葉が、船橋の危機的な研究状況を打開することになった。

日本に帰国後の船橋教授。Patricia Goldman-Rakic博士と鹿苑寺金閣にて
日本に帰国後の船橋教授。Patricia Goldman-Rakic博士と鹿苑寺金閣にて

 根本的な問題解決がなければ自分の思い描く研究が京都大学で展開できないことは、よく分かっていた。サルを使った研究を実施するためには部局長の承認が必要になる。そのためには、船橋が所属する総合人間学部教授会で承認されなければならない。総合人間学部では人文学系の教員が過半数を越え、その中には動物実験の実施を快く思わない教員も多いことは理解していた。また、動物実験についての様々な誤解もあった。特に、船橋が計画しているサルを使った慢性実験は、ラットやマウスを使った急性実験と全く異なるが、そのことを説明し、理解してもらう機会もなかった。もちろん、船橋自身は実験室の設置を認めてもらおうと何年も交渉を試みていたが、立ちはだかる壁は厚く高かった。「さきがけ研究21」を開始するためには時間がなかった。そこで、研究を可能にするか、それとも、研究をあきらめるか、運命を決める時がやって来た。

 当時の総合人間学部長と相談し、サルの実験を総合人間学部で許可するかしないか、教授会で決定してもらうことになった。学部長は、サルを使った研究とはどのようなものか、それを許可した時の学部のリスク、サルを使う研究者として船橋は適格かどうかなど、様々な調査を行い、その結果、「サルを使った動物実験を総合人間学部で行うことを許可する」という提案を教授会に提出し、その賛否を問うことになった。午後2時半頃から始まった教授会はこれをテーマに延々と続き、一部の人が賛成の意見を述べてくれたものの、反対意見が続出し、船橋はほぼ孤立無援の状況だった。口を開いた人たちからは厳しい意見が投げつけられ、それに対して十分な説明を返そうと努力する、いわば防戦一方の状況が続いていた。そして、午後6時過ぎについに採決の時が来た。サルの研究の実施に肯定的な意見はほとんど出てこなかった。出席者の多くが無言で、意思表示をすることがなかったため、船橋は「白票が多くなり、賛成票が過半数を超えないかもしれない。この提案は否決される」と予想せざるをえなかった。しかし、開票の結果はこの予想に反し、出席者の過半数を「1票」だけ超えた賛成多数で承認された。念願の研究が可能になった瞬間だった。そして、「さきがけ研究21」の援助を受けて、立派な実験室と実験設備を準備することができた。京都大学に着任して、7年が経っていた。