2014.08.21

京都を世界の拠点に

 
 「文化財には3つの敵がいます。戦争と貧困、そして無知です」。井手教授は、講演の場などで文化財の保存の必要性を説く時、必ずそう口にする。先の東日本大震災以降、さらに人災を含む災害も敵の一つであると強く意識するようになったという。多くの「敵」にさらされた文化財を守りたいと願う人々は、日本のみならず世界各国にいる。

 井手研究室の大きな特徴の一つに、「グローバルな研究ネットワーク」が挙げられる。国内の文化財保存に関するノウハウをもとに、国外においても文化遺産のデジタル化技術の利用と普及に努めて、その結果として、中国、香港、韓国、マレーシア、フィリピン、オーストラリアそしてエジプトといったアジア・アフリカ方面から、イギリス、イタリア、アメリカにいたるまで、数多くの海外拠点が設置された。「プロジェクト一回限りという関わり方はしません。しっかりとフォローすることが大切だと思っています」という井手教授の方針に従って、共同研究の機会は定期的に設けられている。

 海外の研究者や協力者とのプロジェクトは、時としてスケジュール的に困難なものや、政情の不安定な状況下で行われることも少なくなかったという。それでもプロジェクトを主導し、継続的に関わる理由は何か?それは「トータル設計」というプロジェクトの志に含まれているように思う。井手研究室を中心とするメンバーだけでは、海外の文化財のデジタル化のすべてをフォローすることはできない。そのために人材育成プログラムを整備したのだ。プロジェクトに最適な人材を育成すると同時に、プロジェクトの推進に有益なネットワークを広げ、新たなスキルやナレッジを吸収しているのだ。

大エジプト博物館保存修復センターで実施したプロジェクトのメンバーと井手亜里教授。本プロジェクトでは、考古学、情報学等の異なる分野の研究者から構成されるデジタルスキャナチームが結成された。自立的な共同研究室の維持・継続を目指した技術移転を目的に、文化財の撮影と並行して実地研修を含めた人材育成プログラムを実施した。
大エジプト博物館保存修復センターで実施したプロジェクトのメンバーと井手亜里教授。本プロジェクトでは、考古学、情報学等の異なる分野の研究者から構成されるデジタルスキャナチームが結成された。自立的な共同研究室の維持・継続を目指した技術移転を目的に、文化財の撮影と並行して実地研修を含めた人材育成プログラムを実施した。

 井手教授が、自らあらゆる垣根を越えて、多くの人を巻き込みながら、プロジェクトを進めることを研究室のメンバーは「井手マジック」と呼んでいる。当のご本人は「いたって古い人間のやり方ですよ。ある人に『江戸時代の職人みたいだ』と言われたことがあります。もっとも、それがどういうことか良く分からないんですけれどね」と笑いながら、「たとえば、高精細画像を印刷する場合、素材や出力する画像によって、どこの印刷会社の誰にお願いすれば良いか、全部、頭の中のリストに入っていますよ」と言う。

 井手教授が、東アジア文化に興味を持ってイランから来日したのは1972年。翌年、京都大学に入学し、83年に博士(電子工学)課程を修了した。一時帰国の後、工学研究科助教授を経て、工学研究科教授となるまで、画像処理と分析技術の対象はバイオ領域で、脳細胞の元素を映し出すという研究を続けていた。現在、引き込む力を存分に発揮される井手教授が、「文化財のデジタル化」というテーマに惹かれ始めたのは、十数年前のことだった。「きっかけは偶然かもしれませんが、頼まれて縄文時代のヒトの歯を分析したことでしょうか。当時は、どこか飽きっぽい性格だったんでしょうね。次第に古い時代のもの、とりわけ文化財に惹かれていくようになりました」。きっかけは偶然でも、「芸術のための科学技術」に取り組む必然はあった。「京都は、歴史的な文化財がいたるところにある文化の街であると同時に、ハイテクの街ですからね」。自らの研究成果を活かして、文化財をデジタル化する製品を地元企業の協力を得ながら開発すれば新たな可能性が広がるのではないか。プロジェクトが本格化する前段階から、井手教授のトータル設計はなされていたのだと言える。

 「京都には、文化財を保存・活用するためのインフラが整っています。貴重な文化財を次世代に遺さなければならないという意識が高い土地であることが大きいですね」。井手教授自ら「奇跡のプロジェクト」と呼ぶ、「仁和寺観音堂デジタル化プロジェクト」を「お寺の方と一緒にカレーライスを食べただけで実施が決まってしまったのですから、京都は怖い場所ですよ」と、冗談めかすが、江戸時代初期に創建されて以来、一度も修復されることなく当時のままの状態を維持し続けてきた重要文化財にたずさわるプロジェクトは、研究室のみならず、京都大学にとっても非常に重要なことであったと指摘する。「京都には、文化財を守ろうという意識があり、そして職人芸とも呼べる技をもった新旧の技術者がいる。そこで、最先端の技術と知識を持った大学が機能しないわけにはいきません」。

 「世界には戦争や貧困のため、文化財の保存まで手が回らない国が数多くあります。各国の担い手となる技術者や研究者の卵を日本に招いて人材育成の支援をするなど、文化の面で貢献ができるはずです。京都で研修を行えば、海外の博物館や美術館と強いコネクションが作れますから、表具や織物といった日本の文化財の保全や修復にとっても良いことだと思います」。井手教授は、高い技術力を活かした日本の文化面での国際貢献と、その拠点としての大学と中心とする京都の機能を説き、さらに「だからこそ、ただ保存するだけではなく、より多くの人に見ていただくことが重要なのです」と、デジタル化した文化財を活用する必要性へとつなげる。

【次ページ】デジタルアーカイブからデジタルコンテンツへ