文学部生まれのイノベーション

 SMART-GSは、京都大学文学研究科の林晋教授らがドイツの数学者ダフィット・ヒルベルトの手書きノートを翻刻し、その思想的変遷をたどる目的で開発したソフトウェアだ。SMART-GSを使って、独ゲッティンゲン大学から入手したヒルベルトの手書きノートを画像としてパソコン上に取り込み、読み方や注釈をテキストデータとして入力する。判別不可能な文字は画像として切り出して類似する他の文字と並べて比較し、前後の文脈から読み方を推測する。比較した文字画像をリンクさせ、推測した読み方の根拠を注釈として残す。さらに、複数人で翻刻文や注釈を共有し、重複がないように共同作業を進めることも可能だ。

SMART-GSに地震のことが書かれた古文書を読み込んだ画面 [橋本雄太氏提供]
SMART-GSに地震のことが書かれた古文書を読み込んだ画面 [橋本雄太氏提供]

 古地震研究会の活動を発展させるツールはないかとインターネットを検索した加納氏がSMART-GSを見つけ、同じ学内の文学研究科で開発されていることを知った。分野が離れていることから出会う機会がなかった2人だが、2014年の初春、偶然にも入試監督として同じ部屋を担当することで邂逅する。この偶然を機に、林教授の研究室から教授とともにSMART-GSを開発していた大学院生、橋本雄太氏が古地震研究会に顔を出すようになり、協働が一気に進むことになる。

 なぜ、文学研究科でこのようなソフトウェアが生まれたのだろう。SMART-GSを開発した林教授は現在、歴史社会学を専門としているが、大学や大学院では数学を専攻して計算機科学分野に進み、プログラミングに関する著書もある。橋本氏も、子どもの時からコンピュータに親しみ、文学部卒業後は民間企業で3年間、システムエンジニアとして活躍した。林教授にも橋本氏にも、デジタル分野の知識と経験、技術があったからこそ、他の研究者から寄せられるニーズを取り込み、SMART-GSを発展させることができたという。

 同じ文学研究科の永井和教授らは、大正から昭和にかけて枢密院議長などを務めた倉富勇三郎の7年分の手書きの日記を翻刻・出版するプロジェクトに、SMART-GSを活用した。このプロジェクトを推し進める中で寄せられた要望を取り入れる形で、大勢の人々で翻刻するというSMART-GSの機能が充実していった。

 近年、国内外で「デジタル・ヒューマニティーズ」が注目されている。ヒューマニティーズとは人文学のことで、文学や歴史学、言語学、美学など様々な研究分野が含まれる。デジタルと人文学という、一見すると遠く離れた分野が融合した「デジタル・ヒューマニティーズ」では、デジタル技術を利用した文字情報の分析や画像データベースの構築、空間と時間のデータの活用など、研究手法の革新と共有を通じて「人文学」そのものを問い直すことが重要視されている。京都大学はこの分野において、日本を先導する研究機関のひとつだ。2015年9月には、京都大学で日本デジタル・ヒューマニティーズ学会が開かれ、海外からも多くの参加者があった。

 SMART-GSの開発目的は当初、ヒルベルトの手稿を単独で読むことだった。しかし、この道具を必要とする研究者たちの声によってグループでの共同作業が可能となり、さらにはインターネットを通じて距離や時間の制約を受けないツールへと改良された。そして、従来の方法では考えられなかったような速さで、文献を深く解釈できるようになった。研究において普遍的な「読む」ことが、共同作業で深化しうるということ、そして共同作業が分野や国境を越えられることを知らしめたのだ。

 橋本氏は言う。「くずし字を読みたい人は、至るところにいます」