Behind Kyoto University's Research
ドキュメンタリー
Vol.8

時代と分野を越えて「読む」

防災研究所附属地震予知研究センター 加納靖之 助教
文学研究科博士後期課程 橋本雄太

「ある土地で大地震が起こる頻度は百~数百年に一度。地震を理解し、今後の防災に役立てるためには昔の災害が記録された古文書を読み解かなければなりません」と、古文書の解読に取り組む科学者たちがいる。彼らはいま、分野を越えて人文学の研究者たちとともにデジタル技術を活用して解読を加速させつつある。みんなで読めば、困難は乗り越えられる。「読む」ことを通じて越境し続ける研究者たちに、「読む」ことから拡がる知の可能性について話を聞いた。

地震学者と古文書

 2015年の初秋、北部構内にある理学研究科セミナーハウスの高い天井の下で、スクリーンに映しだされた古い絵図に頭をひねる人々がいた。スクリーンを前にコの字型に座り、たどたどしく「ゆう…がた、やま…つ…なみ?で、そうろう…」などと、絵図に書かれた毛筆文字を順に読み上げる人々は、老若男女が入り交じり、一見すると何のグループか分からない。

 絵図には、天明3年(1783年)に起こった浅間山の大噴火で逃げ惑う人々など、当時の大災害の様子が生々しく描かれている。絵図には毛筆文字で説明書きがあり、講師がこれらの読み方を指導している。

 これは、地震学研究室・中西一郎教授が主催する古地震研究会の合宿の一コマ。研究会では週に一度の定例会の他、年に一度、昔の災害を記録した古文書を集中的に読む合宿を行っている。研究者ではない人々や図書館の職員も混じっているが、参加者の多くは理学部生や災害の研究者など、いわゆる「理系」の人たちだ。参加者の一人、防災研究所・加納靖之助教に話を聞いた。

京都大学防災研究所附属地震予知研究センター 加納靖之助教

「私は何でも『測る』のが好きなんです(笑)。地下水の観測によって得られた水位変化や、地震による地面の伸び縮みについて研究してきました」

 そんな研究を続ける加納氏が、なぜ古文書を読む研究会に参加しているのだろう?

「観測による地震の数値データが記録され始めたのは、明治以降です。大地震が起こる頻度は数百年に1回程度。データが残る150年程度の観測記録から分かることは、まだまだ少ないのです。地震を理解するためには、古文書に記された地震の記録を読み解かなければなりません」

 ここで、古文書を前にした現代の理系研究者に大きな壁が立ちはだかる。古い地震について書かれた絵図や文献は、草書体や行書体の「くずし字」で書かれており、現代の人々が読みこなせるまでには、かなりの時間と労力が必要なのだ。くずし字や手書きの文字を読んで現代の文字に書き換えることを「翻刻(ほんこく)」という。翻刻に慣れている国文学や日本史の学生や研究者に地震についての古文書を読んでもらう方が、理系研究者が古文書と格闘するより効率的なのではないか?

「例えば、海で大きな波が起こった記録があったとすると、防災研究者自身が読むことで、その大波が地震による津波なのか、台風による高波なのか、違いが分かるのです」

 古い時代の地震研究は、今に始まったことではない。関東大震災といった大地震を経験し、日本の地震学を創始した研究者たちは古文書を読むことができた世代で、当時も古文書から古い地震について調べていた。近年では、東京大学の宇佐美龍夫名誉教授らの精力的な研究によって、日本各地に残る古文書から地震に関する記述が翻刻され、整理されつつある。今後の古地震研究では、もっと多くの古文書から地震情報を読み解き、検索可能な形で後世に残すことが課題の一つだと、加納氏は語る。京都大学は地震に関する多くの文献を所蔵しており、研究の余地はいくらでもある。

 しかし、地震研究における最終目的は、古文書を読み解くことではない。翻刻から得られたデータを整理・分析し、活用できる形にして発表し、近い未来や遠い将来の地震対策に役立てなければならない。そのために解読をより効率よく行う方法を模索していた加納氏が出会ったのが「SMART-GS」だった。

文学部生まれのイノベーション

 SMART-GSは、京都大学文学研究科の林晋教授らがドイツの数学者ダフィット・ヒルベルトの手書きノートを翻刻し、その思想的変遷をたどる目的で開発したソフトウェアだ。SMART-GSを使って、独ゲッティンゲン大学から入手したヒルベルトの手書きノートを画像としてパソコン上に取り込み、読み方や注釈をテキストデータとして入力する。判別不可能な文字は画像として切り出して類似する他の文字と並べて比較し、前後の文脈から読み方を推測する。比較した文字画像をリンクさせ、推測した読み方の根拠を注釈として残す。さらに、複数人で翻刻文や注釈を共有し、重複がないように共同作業を進めることも可能だ。

SMART-GSに地震のことが書かれた古文書を読み込んだ画面 [橋本雄太氏提供]

 古地震研究会の活動を発展させるツールはないかとインターネットを検索した加納氏がSMART-GSを見つけ、同じ学内の文学研究科で開発されていることを知った。分野が離れていることから出会う機会がなかった2人だが、2014年の初春、偶然にも入試監督として同じ部屋を担当することで邂逅する。この偶然を機に、林教授の研究室から教授とともにSMART-GSを開発していた大学院生、橋本雄太氏が古地震研究会に顔を出すようになり、協働が一気に進むことになる。

 なぜ、文学研究科でこのようなソフトウェアが生まれたのだろう。SMART-GSを開発した林教授は現在、歴史社会学を専門としているが、大学や大学院では数学を専攻して計算機科学分野に進み、プログラミングに関する著書もある。橋本氏も、子どもの時からコンピュータに親しみ、文学部卒業後は民間企業で3年間、システムエンジニアとして活躍した。林教授にも橋本氏にも、デジタル分野の知識と経験、技術があったからこそ、他の研究者から寄せられるニーズを取り込み、SMART-GSを発展させることができたという。

 同じ文学研究科の永井和教授らは、大正から昭和にかけて枢密院議長などを務めた倉富勇三郎の7年分の手書きの日記を翻刻・出版するプロジェクトに、SMART-GSを活用した。このプロジェクトを推し進める中で寄せられた要望を取り入れる形で、大勢の人々で翻刻するというSMART-GSの機能が充実していった。

 近年、国内外で「デジタル・ヒューマニティーズ」が注目されている。ヒューマニティーズとは人文学のことで、文学や歴史学、言語学、美学など様々な研究分野が含まれる。デジタルと人文学という、一見すると遠く離れた分野が融合した「デジタル・ヒューマニティーズ」では、デジタル技術を利用した文字情報の分析や画像データベースの構築、空間と時間のデータの活用など、研究手法の革新と共有を通じて「人文学」そのものを問い直すことが重要視されている。京都大学はこの分野において、日本を先導する研究機関のひとつだ。2015年9月には、京都大学で日本デジタル・ヒューマニティーズ学会が開かれ、海外からも多くの参加者があった。

 SMART-GSの開発目的は当初、ヒルベルトの手稿を単独で読むことだった。しかし、この道具を必要とする研究者たちの声によってグループでの共同作業が可能となり、さらにはインターネットを通じて距離や時間の制約を受けないツールへと改良された。そして、従来の方法では考えられなかったような速さで、文献を深く解釈できるようになった。研究において普遍的な「読む」ことが、共同作業で深化しうるということ、そして共同作業が分野や国境を越えられることを知らしめたのだ。

 橋本氏は言う。「くずし字を読みたい人は、至るところにいます」

国境を越えて「読む」

 2016年2月、橋本氏が参加する研究プロジェクト「日本の歴史的典籍に関する国際的教育プログラムの開発」(研究代表者・大阪大学飯倉洋一教授)が、スマートフォンやタブレット用の「くずし字学習支援アプリ KuLA」を発表した。このアプリは、くずし字の読み方をクイズ方式で覚えられるもので、日本だけでなく、世界各地で日本史や日本古典文学などを学ぶ学生たちにも役立つ。古文書の原典を自分で読んで調べたいという海外の研究者からの声も取り入れ、くずし字を学びやすいアプリとなっている。

「くずし字学習支援アプリKuLA」

 また、このアプリは開発段階からソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)でも注目を集めていた。くずし字を読みたい層とSNS利用層が重なることに少し驚くかもしれない。実は、全国各地の名刀を擬人化したオンラインゲームのファン達の間で、くずし字を読んだり書いたりしてみたいというくずし字ブームがにわかに起こっていたのだ。

 日本には、江戸時代末までに作られた書物「古典籍(こてんせき)」が、100万点以上あるとされている。古典籍の研究機関、国文学研究資料館が中心となって進める「歴史的典籍に関する大型プロジェクト」では、日本全国にある古典籍を電子化し、インターネットで公開しようしている。くずし字で書かれた古典籍に簡単にアクセスできるようになれば、専門家でなくても江戸期以前の日本人の知に触れられるようになる。SMART-GSのような「みんなで読む」機能が合わされば、見知らぬ人同士が協力して難解なくずし字を解読できるようになるかもしれない。

 実は海外では、インターネット上で人々が協力して翻刻する「クラウド翻刻」の成功例がいくつもある。例えば、英ロンドン大学では、哲学者ベンサムの膨大な手書き文書を翻刻するプロジェクトが展開されており、3万5千人以上の人々が参加している。

 加納氏らは古地震研究会で、過去の災害に関する古文書を、その災害が起こった土地の人々と一緒に読み解いて、実際の防災につなげたいという。くずし字学習とクラウド翻刻が普及すれば、地震に限らず災害に関する記録がさらに網羅的に明らかになり、現代の防災研究の発展に寄与するだろう。

京都大学文学研究科博士後期課程 橋本雄太氏

 橋本氏は、国立国会図書館が明治期以降の電子化資料を提供する「近代デジタルライブラリー(近デジ)」(※2016年5月に「国立国会図書館デジタルコレクション」と統合予定)を快適に読むアプリ「近デジリーダー」も提供している。こういった「読む」ことを支援するデジタル技術を発展させる意義は、他にもあると橋本氏は言う。「資料の読み方は時代によって変わってきます。たとえば教科書にも載っている『慶安の御触書』は、幕府が農民を制するために出された法であると教えられてきましたが、最近では、一地域の触書が広まったものとの見方が出てきており、教科書の記述も変わってきました。このような資料の読み方を蓄積して残せば、100年後の人々が今の私たちの『読み方』を、また歴史的な資料として研究できるのです」

 古い資料を読むという行為は、世界中どこでも行われている研究の手法のひとつだ。そして、研究者が単独で文献を見るのではなく、多くの人々で読み進めば、成果は飛躍的に向上する。さらに、国境を超えた人々が「読む」ことによって、おのずから国際的な共同研究が進み、新たな知が生まれる。デジタル技術とインターネットが可能にした新しい「読む」世界に、研究者でなくとも、誰でも挑戦できる未来はもうすぐそこまで来ている。

分野を越える京大の研究力

近年、細分化した分野を超えて新しい研究を生み出すために、「文理融合」や「学際融合」が求められている。しかし、研究者は元来、「知りたい」と思えば、どのような分野の成果も取り入れてきた。「文系とか理系とかに分けるという考え方に僕は慣れていないですね。京大には結構そんな人が多いんじゃないでしょうか」と橋本氏。古地震研究会では、くずし字を読むことにのめりこんでいく理系の研究者もいる。大気物理学を専門としながら、近ごろは古文書を用いた台風研究に取り組んでいる坂崎貴俊氏(生存圏研究所/日本学術振興会特別研究員)は、「数値のデータを解析するのが普段の研究ですが、もともと歴史好きで、古文書を読めるようになるのが楽しいんです。昔の人は観察眼が鋭く、合戦の時の気象描写などとても詳しい。翻刻されていないものは自分で読むしかありません」と語る。彼らの取り組みは、「文系」や「理系」といった枠組みなどなかったかのように、「知ることが楽しい」という気持ちの赴くまま、華麗に境界を越え続けている。

加納 靖之(かのう やすゆき)
防災研究所附属地震予知研究センター 助教
 →個人サイト

橋本 雄太(はしもと ゆうた)
文学研究科 博士後期課程
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