書類倉庫の片隅に眠っていた古いアルバム。そこには白黒の航空写真197枚が残されていた。写っているのは一体、どこなのか?誰が、何のために撮影したのか?――その秘密を突き止めたのは凄腕の探偵……ではなく、京都大学フィールド科学教育研究センター技術職員の槇田盤さん。古い資料のデジタルアーカイブ化に取り組んでいる槇田さんに、倉庫で見つけた資料から分かったこと、研究資源のアーカイブ化の意義などについてお話を聞きました。

ガラス乾板写真の謎に挑む

―― フィールド科学教育研究センター(以下、フィールド研)の技術職員とは、どんなお仕事をされている方々なのでしょうか

槇田 フィールド研は、京都府の芦生研究林(南丹市)や上賀茂試験地(京都市北区)、舞鶴水産実験所(舞鶴市)など、全国10カ所に施設を持つ部局で、敷地面積では京大全体の9割を抱えています。フィールド研の教職員約100人のうち、技術職員は38人。各施設で森林の整備や船舶の操縦、水族館の維持管理などに携わっています。私自身は2008(平成20)年から情報系の技術職員として吉田キャンパスに常駐し、ウェブページの運用や印刷物の編集などを担当しています。

―― 通常業務とは別に、古い資料のデジタルアーカイブ化にも取り組んでいるそうですね

槇田 古い書類や段ボール箱がたくさんある地下の書類倉庫を掃除しているときに、ガラス乾板の入った小箱がいくつもあるのを見つけました。ガラス乾板っていうのは、感光する乳化剤を塗った写真撮影用のガラス板のことで、ロール状の銀塩フィルムが普及する前、昭和30年ごろまで使われていたものです。

倉庫に保管されていたガラス乾板
倉庫に保管されていたガラス乾板

―― 「ガラス乾板」というものをご存知だったんですね

槇田 前職で映像や産業技術史に関する博物館の仕事もしていたので、知識として知っていましたが、実際に手にしたのは初めてでした。倉庫には、ガラス乾板写真800枚弱のほか、紙焼き写真も1200枚ほどありました。何が写っているのか、ずっと気になっていたんですが、勝手に手をつける訳にもいかない。安藤信准教授に尋ねてみたところ、『京都大学農学部70年史』(1993年刊)などにむけて当時の先生方が整理した後に所在が分からなくなっていた、旧農学研究科附属演習林関連の写真だと分かりました。そこで、京都大学研究資源アーカイブの「研究資源化プロジェクト」に応募し、2012年度から資料のデジタル化に着手しました。関連情報が残されていないガラス乾板も多く、他の写真や当時の研究論文などから、撮影場所や年代を特定する作業を進めています。

何かのプレパラートらしきものが写っているガラス乾板
何かのプレパラートらしきものが写っているガラス乾板

―― 樺太演習林に関して、非常に貴重な資料を発見されたそうですね

槇田 かつての京都帝国大学は、台湾、朝鮮半島、樺太に「外地演習林」を持っていました。1923(大正12)年に農学部が設置されると、演習林は研究や学生実習の場としても活用されるようになりました。

倉庫に保存されていた『航空実体写真帖 京都帝国大学樺太演習林』という背表紙のアルバム4冊に、森林を上空から撮影した写真が197枚あったんです。撮影目的といった情報や関連資料がなかったんですが、あるとき古い日本林學會誌に「航空寫眞に依る樺太の森林調査に就て」という発表を見つけたことから、これらの写真は1930(昭和5)年に樺太庁が森林調査のために撮ったものだと判明しました。

―― 昭和初期の航空写真ですか。誰がどんなふうに撮ったのでしょう?

槇田 アメリカのフェアチャイルドK8写真機で、24×18センチのフィルム1コマに、焦点距離25cmのレンズを使って、高度3750mから撮影されています。これは縮尺が1万5千分の1となるようにするためです。そんな高度な飛行を担当したのは、陸軍飛行学校の飛行機とパイロットです。樺太庁の依頼で、下志津陸軍飛行学校の複翼偵察機が撮影していました。

4冊のアルバムにあった197枚の写真は、このフィルム1コマを原寸大で紙焼きしたものでした。この年の樺太演習林の手書き資料の中に、撮影に協力する代わりに譲り受けた写真であることが分かってきました。撮影した航空写真を集成するときに必要な目印として、演習林の職員が地上で白布を広げていたようです。

アルバム4冊に残された197枚の写真
アルバム4冊に残された197枚の写真