Biographies of Kyoto University's Personnel
京大人間図鑑
Vol.8

置田清和 白眉センター 特定助教

人々にとって「神」とは何か。知的好奇心の赴くままにアメリカ、イギリス、ドイツ、インドを渡り歩き、京都大学へ。サンスクリット古典文学からヒンドゥー教の神への愛や友情を読み解く。日本でも西洋でもない、南アジアからの視線が私たちにもたらすものとは。

置田清和
白眉センター 特定助教

「神」という存在のインパクト

――インドと出会ったのはいつですか?

置田助教 出身は神戸なんですが、通っていた六甲学院はカトリックのイエズス会系の高校で、今も奉仕活動の一環としてインドのハンセン氏病患者のための施設に対して募金をしています。3年に一度、先生といっしょにその施設を訪れる機会があって、17歳の時に私もそれに参加したのです。お亡くなりになる半年前のマザー・テレサに面会したりしました。とにかく考えさせられることばかりで・・・。その際ガンジーの思想にも触れ、大英帝国に向かって非暴力で立ち向かうとはなんて斬新なんだと衝撃を受けました。

今年2月ダッカ(バングラデシュ)でInternational Mother Language Dayに。一緒に写っているのはベンガル語の練習相手になってくれたシマントさん。

――高校生の時の体験が今の研究につながっているんですね。その後は?

置田助教 次は国際基督教大学で、インド思想史とキリスト教神学を学び、ヒンドゥー教とキリスト教の宗教間対話について卒業論文を書きました。学部時代に留学したカリフォルニア大学サンタバーバラ校で、宗教間対話についてもっと研究するならオックスフォード大学の神学部であると聞き、イギリスへ渡りました。修士課程を終わった頃、キリスト教よりヒンドゥー教をもっと研究したいと思うようになり、博士課程に進むと共に古典を読むため3年ほどサンスクリット語にどっぷり浸かって勉強しました。さらに、読みたい文献をいっしょに読んでくれると言ってくれた先生がいたので、ドイツのハンブルグ大学へ2年間留学しました。

――「いっしょに読んでくれる先生が見つかった」ってどういうことなんですか?

置田助教 読んで研究したい文献があったとします。まずは一人で読んで英訳し、その後で同僚や先生といっしょに解釈を確かめ合いながら読みます。ドイツでは先生と、まさに一語ずつ、きっちりやりました。ギリシア語やラテン語の写本を読み解くヨーロッパの伝統的な文献学の手法が、サンスクリット語を読み解くインド古典学にも応用されています。この過程に時間をとってくれる先生がいるということが重要なのです。

――時間のかかる研究なんですね。そして長年の探求が実り、昨年、博士論文をもとにした本を出版されたと。

置田助教 昨年、オックスフォード大学出版会から本を出しました。足掛け10年かかったことになります・・・

Hindu Theology in Early Modern South Asia (近世南アジアにおけるヒンドゥー教神学).

著者 Kiyokazu Okita
出版社 Oxford University Press
出版年 2014年
ISBN 978-0-19-870926-8

出版社サイト 
CiNii Books 

――研究テーマは、南アジアでとても人気のあるクリシュナ神ですね。なぜ、クリシュナ神に辿り着いたんですか?

置田助教 中高生のころからクリスチャンの方々と日常的に接する機会がありましたが、彼らの言う「神」という概念が理解できず、知的な興味を抱き続けてきました。「神」というと、どうしても崇高で、自分よりも高いところにあるものというイメージではないですか?しかし、クリシュナ神は、ただの牛飼いの少年です。ヒンドゥー教の一派であるヴィシュヌ教において信者は、この神との関係を親子・・・つまり自分がクリシュナの親になったり、あるいは恋人として出かけていくというような状態を理想とするのです。そこらで遊んでいる子どもであると同時に、宇宙創造の神だと。そのギャップが大胆すぎるというか・・・。神のイメージを覆すフレンドリーさ、神と人との近さにクリシュナ神の魅力を感じます。

――文献はインドやバングラデシュに行って集める場合もあるんですよね。いろいろ苦労がありそうですが・・・

置田助教 そうなんです。まずは図書館の人とお茶を飲んで、「こいつはいい奴だ」と思われないと資料を見せてもらえなかったりもします。去年はすんなり見せてもらえた資料が、今年は「方針が変わった」と見せてもらえなかったり、逆に知り合いの研究者の名前を出したら急に態度が変わって見せてもらえたり。英語ではなかなかうちとけてくれないこともあるので、現地の言葉であるベンガル語も勉強しています。また、写本ならばデジタルカメラで撮影させてもらうのがいちばんありがたいですが、許可されないこともしばしばです。欧米の図書館では、研究者がどのように研究しているか、何が必要かという研究文化がわかっているのでだいたい撮らせてくれるのですが、現地ではその意識が通用しません。毎回が修行のようなものです(笑)。

異なるものへの理解を提供したい

――置田先生の研究のここがすごい!というところを教えてください。

置田助教 サンスクリット古典は12世紀以降廃れていったと思っている研究者が多いのですが、私が研究している時代はムガル朝期・・・日本でいうと「近世」、つまり江戸時代にあたります。南アジアの19世紀以降のことは地域研究が盛んなのですが、13世紀から18世紀は古典と地域研究の間で、研究の層が薄いのです。ですが、明治のことを知りたいのであればその前の江戸時代のことを知ることも重要ですよね。私の研究で、現在の南アジアのダイナミックさの原点を掘り起こしたいと考えています。

2014年8月に北海道天人峡で開催したサンスクリット夏合宿で。白眉センターと文学研究科インド古典学専修が共催した。左は野外での読み会。

――その時代の思想から、現代の私たちにとっても新しい視点が得られるのでしょうか?

置田助教 いま、西洋哲学の分野では「感情の哲学 (Philosophy of emotion)」が注目のテーマの一つとなっていますが、取り上げられている古典はソクラテス、デカルト、スピノザ・・・やはり西洋のものです。一方南アジアでは4世紀くらいから、演劇の舞台装置や俳優を通じて恋愛感情をどのように表現するかといったことを考察してきました。そこでの「感情」理論が詩論へ取り入れられ、さらに14、5世紀に宗教に反映されてきたという蓄積があります。クリシュナに対して、詩でどのように恋愛感情を表現をするのか、といったことですね。南アジアでの蓄積が、西洋哲学における現代の課題「感情の哲学」に何らかの貢献ができるのではないかと思って模索しているところです。

――今後はどのように研究を展開させていきたいですか?

置田助教 まずは先ほど申し上げた「感情の哲学」で西洋哲学との対話。一方、世界的にイスラームが注目を集めています。南アジアのムスリムの人口もとても多く、私の研究しているムガル朝期のヒンドゥー教はイスラム教のスーフィー思想との関係があります。イスラームとヒンドゥー教の対話ということも今後取り組みたいことの一つです。それから、文献学者のコンプレックスかもしれませんが、実は現地に長期滞在したことがないんです。今までは長くても数ヶ月くらいでしょうか。人類学者のように、現地に長期間滞在し、現地の言葉を学び、人々との対話から研究のインスピレーションを得たいという気持ちがあります。自分の専門であるサンスクリット古典文学を深めるためにも、対話を拡げていきたいです。

――南アジア、サンスクリット古典・・・お話をうかがうととてもおもしろいのですが、普段の私たちの生活にはあまり馴染みがないですよね。日本でそれを研究する意義は何でしょうか?

置田助教 ヒンドゥー教でなくてもなんでも、自分とは「異なるもの」を学ぶことの大切さを伝えたいんです。どこの国でもそうですが、自分の国、自分の母国語しか知らず、自国民としか関わりを持たない、そういう生活をしていると、実はその国特有の習慣、制度、価値観といったものが普遍的なものであるかのような錯覚を起こし、それが他者への排除に繋がります。自分とまったく違う背景で育った人間が隣人になったとき、彼・彼女を尊重できる人間とは、自分の持っている価値観を相対化できる人だと思います。ソクラテスは「The unexamined life is not worth living(吟味されない人生は生きる価値がない)」と言ったといわれています。我々が日々の生活の中で当然だと思い、無批判に受け入れている価値観や世界観を相対化するものさしの一つとして、私はインド思想というものを提供したいのです。最近、「よくわかる宗教学」という本でヒンドゥー教の項目の執筆を担当しました。南アジアのダイナミックさを伝えたいし、ヒンドゥー教を身近に感じてもらえたらと思っています。

――4月からはまたスーパージョン万プログラムでイギリスとドイツに旅立たれるそうですね。あちらでも研究をがんばってください。本日はありがとうございました。

置田助教にとっての「京大の研究力」とは?

私は大学院から海外で研究を進めてきましたが、京都大学にはアメリカ、イギリスやドイツに引けをとらない充実した環境があります。共に研究する、すばらしい先生方や同僚がたくさんいます。研究環境に優れている京大のなかでも、特に白眉センターはさらに研究に集中できる素晴らしいプログラムだと思います。ただ、外国人研究者にとっては学内外での生活の面でサポートが足りないと感じます。私の妻はアメリカ人ですが、研究者本人だけでなく家族も言葉などの面で苦労しています。研究面では問題がなかったものの、生活のことを考え、任期の半ばで京大を去って海外の大学へ移った外国人の同僚もいます。言語面でのサポートなど、外国人研究者がもっと安心して長期に生活できる態勢を整えることができれば、国際的な大学としての京大の研究力がさらにアップするのではないでしょうか。

置田清和(おきた きよかず)
京都大学白眉センター 特定助教/サンスクリット古典文学

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