Biographies of Kyoto University's Personnel
京大人間図鑑
Vol.15

奥村清・奥村良 原子炉実験所

大阪府南部、関西国際空港に程近い熊取町にある、京都大学原子炉実験所。核エネルギーと放射線の利用に関する研究・教育を行う研究所として、1963(昭和38)年に設立されました。研究所を支える技術職員の中に、親子二代にわたって活躍されている方がいます。草創期からこの実験所で働いてきた父の奥村清さんと、民間企業から転身して10年という息子の奥村良さんです。この仕事に携わることになった経緯、やりがい、実験所の昔と今についてお二人にお話を伺いました。さらに、奥村清さんと長年仕事をともにしてきたという、所長の川端祐司教授に対談に加わっていただきました。

奥村清/奥村良
京都大学 原子炉実験所

実験所とともに歩んで50年の父、誇りを継ぐ息子

―― まずはお二人の経歴と現在の仕事内容を教えてください

奥村清 1967(昭和42)年に高校を卒業して入所しました。当時、「技官」と呼ばれていた技術職員は、全員が高卒でした。仕事は、ずっと原子炉の運転・管理を担当しています。入所したときは、実験所の原子炉が動き出して3年目でしたから、技術職員も研究者も若い人ばかり。原子炉に関する経験者が少なくて、今のように研究と管理の仕事を分けることができず、研究者も技術職員も一緒になって仕事をしていました。

ここの研究用原子炉では、ウラン235の核分裂によって発生する中性子を、物理学や化学、生物学、工学、農学、医学などのさまざまな実験に利用しています。私の仕事は原子炉を安全に運転、管理することで1年の半分が運転、残り半分でメンテナンス作業などを行っています。

原子炉制御室で運転操作について説明する奥村清さん

良 2007(平成19)年に入所して、ちょうど10年になります。大学では有機化学を専攻して、大学院を経て化学メーカーに就職。4年ほど、関東にある工場の管理業務に携わりました。仕事には満足していたんですが、妻も同郷ですし、ゆくゆくは地元に戻るのがいいかなと思っていたこともあって、ここに来ました。

奥村清 ちょうど10年前が世代交代の時期に当たりまして、職員の募集があったんです。そんな話を女房にしていたら、息子に声をかけてみたら?って。僕はそんなこと考えもしなかったんですけど、言われてみたらそうやなぁと。それで、試験を受けてみたらどうかと提案したわけです。

良 僕も、父と一緒に働くなんて考えたこともなかったですけど、特に抵抗はありませんでしたね。職場は同じで、父と同じ技術職員ではありますが、担当するところは違います。原子炉の周りには、原子炉から出てくる中性子を使ういろいろな実験装置があるんですが、それらを管理するのが僕の仕事です。

この実験所は共同利用・共同研究拠点でもありますから、全国の大学からさまざまな人がそれぞれの研究テーマを持ってやってきます。そうした方々の実験のサポート業務も行っていますので、原子炉の運転中はとても忙しいですよ

※ 原子炉は現在、停止中。2017年初夏に再稼働予定

陽電子ビームシステム(写真左)の設置を担当した奥村良さん

―― では、親子で一緒に作業をすることはないんですか

奥村清 普段はありませんが、去年、利用者が減ってきた古い設備を解体するという仕事があって、その作業を二人で担当しました。原子炉と密接に絡んでいる実験装置だったので原子炉の担当者と実験装置の担当者が協力する必要があって、たまたま担当だった二人が作業することになりました。

良 2カ月くらいだったかな。ほぼ毎日一緒に作業をしていました。言いたいことを遠慮なく言えますし、僕はやりやすかったですよ。

奥村清 もともと、親の威厳ってあんまりなくて(笑)。

良 父はモノづくりが好きで、昔から家の補修とかも自分でやるんです。僕も外壁の塗装とか、よく手伝わされてましたからね。今回の仕事もその延長みたいな感じでした。

―― 実験所での仕事って、どんなところにやりがいを感じますか

奥村清 原子炉の運転・管理という本来の仕事に加えて、3人の先生の研究支援に関わってきました。大学の研究は基礎研究が中心ですから、すぐ世の中のためになるかどうかはわかりませんが、先生たちの情熱に触れながら研究支援ができたことに満足しています。

良 実験装置の管理って、一番研究に近いところ。決まった仕事だけではなく、装置を改良するといった工夫の余地が大きいんです。原子炉自体は法規制がありますから、勝手なことはできないんですが、実験装置は研究者の要望を聞いて、こうやったらもっと使いやすくなるかな?など、自分の考え次第で仕事の幅が広がる。そこがおもしろいところですね。あと多くの研究者の方と実験できるので刺激にもなるし、知識の幅も広がります。

お忙しい中、取材に応じてくださった奥村さん親子

―― お父さまはこの3月に退職されるそうですね

良 父の仕事には見習うべきところがいっぱいあります。父は結構、努力家なんですよ。働きながら大学を出ているし、仕事に必要な資格もたくさん取って。僕が子どものころも家が近いこともあって時間を見つけては「原子炉に行ってくるわ」と、勉強しに行っていましたから。実際に入所してみると、父が勉強していた成果が見えるわけです。だからなおさら、すごいなと思います。

奥村清 入所と同時に4年間、工学系の夜間大学に通っていたんです。京大の良さだと思うんですが、周りの先生や職員たちが勉強することに関してはとても寛容で、いつも応援してくれました。試験が近づくと「ちゃんと勉強してるか」と気遣ってくれて。ありがたかったですね。

研究者が昼夜関係なく研究に没頭している姿を目の前でずっと見ていたから、僕もがんばってこれたと思っています。

技術職員と研究者の垣根なく、夜通し語り合った日々

―― ここからは所長の川端教授も交えてお話を伺います。奥村さんと所長とは、長いおつき合いなんですよね

川端所長 私が修士の大学院生として、ある先生のもとで研究をしていたとき、奥村さんがここの技術職員でしたから、20代のころからのつきあい。

奥村清 だから川端さんを「先生」とは呼びにくい(笑)。

いつも笑顔の川端所長。専門は中性子物理工学

川端所長 当時は教員も技術職員も同じ部屋にいたんです。私らがいた部屋の風習として、月に1回は全員で鍋料理を作って、徹夜で飲んで食べて語ろうというのがあって。みんな、若かったから、朝まで飲めるわけですよ。そのときに奥村さんから懇々とね、「研究者とはこうあるべきだ」という話をされましたねぇ。

奥村清 酒の席ですから、言いたいこと言ってましたね。

川端所長 当時は研究と管理業務の区別がはっきりとはしていなくて、技術職員も教員も一緒になって仕事をしていました。教員の中には管理業務に偏りがちな人もいて、奥村さんは「研究者なら、雑用に逃れずに研究をしっかりやるべきだ」と。逆に管理業務をおろそかにして研究ばかりやっている人に対しては「甘えてないで、必要な仕事もしっかりこなすべきだ」とよく言っていましたね。一緒に仕事をしているから、全部見透かされるんですよ。要は、一つの社会の中に生きているのだから、そこで必要とされることをしっかりやれ、と。立場は違っても、それぞれが真摯に生きよ、ということを奥村さんは常々言っていましたね。私は、ちょっと口ごたえはしたかもしれないけど、内心は「うーん」と考えさせられていましたよ。

奥村清 技術職員は研究の成果というものは、あまりわからないんですよ。ただ、研究に取り組む姿勢は見ることができる。その姿勢で研究者の真剣さを判断していたところがあります。研究者の情熱を感じるからこそ、技術職員も全力でいい仕事をしようと思えるんです。

話題が尽きない鼎談

地域の人びととの信頼関係づくりにも尽力

川端所長 この実験所ができるまでには、さまざまな困難がありました。世間では「原子炉は怖い」というイメージが非常に強かった。だから、絶対に安全に運転する、それを間違いなく続けていかなければ、地域の人たちの信頼を得ることはできません。だからこそ、誠実に、真摯に仕事をしようということなんですよね。奥村さんをはじめ、実験所の草創期を築いた人たちが、そうした安全に対する文化を作り、今も継承されています。

原子炉プール内(写真右)を確認する奥村さん親子

奥村清 僕自身、実験所のすぐ近くに住んでいるんです。今でも忘れられないのは、40年近く前のこと。2号炉を作る計画が立ち上がって国の審査も通った。ところが、そのころ実験所の周辺にたくさん家が建ち始めたこともあり、住民の反対運動が起こって、2号炉の建設は白紙になりました。 やはり、実験所は地域の方々の信頼が不可欠。私はここのテニスコートで同僚たちとよくテニスをしていたんですが、ちょうど自治会の方からテニスコートを使いたいと申し出があったんです。地元の方々がここに出入りすることが、実験所に対する理解を深めてもらう一助になるかもしれないと思って、使っていただくようになって、もう30年になります。今は少年野球チームにも、毎週末にグラウンドを使ってもらっています。

川端所長 もちろん、原子炉の安全性については、さまざまな機会に説明していますが、やはり、顔の見える関係が大事ですよね。こういう誠実な人が働いている、あの人なら大丈夫と思っていただけることが、地元の方々の安心、信頼につながっているのだと思います。

良 僕も最近、テニスを始めたんです。父が退職した後も、これまでの流れを引き継いで、新しい地元の人にも加わっていただいて、ここで一緒にテニスをするつもりです。

奥村清 ここの原子炉の最大出力は5000キロワット。原子力発電所に比べたらとても出力が低いので、安全性は高いのですが、それでも「何かあったら運転を止める」ということは決まっています。ちょっとした計器の故障に備えて、二重三重のバックアップ体制はとっていますが、それでも止める。安全最優先の文化はこの先もずっと継承していってほしいですね。

半世紀を過ごした原子炉室は「我が家みたいなものですよ」と奥村清さん

奥村さん親子にとっての「京大の研究力」とは?

奥村清 私が入所したころは、それぞれの研究者の興味だけで研究ができた時代だったと思います。近年、注目度が高いのは、中性子によるがん治療の研究だと思いますが、僕が入所したころは、そんなものは研究じゃないという雰囲気がありました。基礎研究が重視されていたわけです。今思えば、結果を出さずに終わった研究者もたくさんいるような…。でも、それを「ごくつぶし」と見るのか、「有効な無駄」だったのか、僕にはわからない。ただ、底辺の広さがあるからこそ、生まれる成果も大きくなる。そこが京大の研究力につながっているという気がします。今は「すぐに使える」成果を出すことが強く求められる時代ですが、基礎研究が重要だという意見は、長年研究を続けてこられた方の共通の意見のような気がします。

奥村良 最近は研究費などの予算が縮小されているので、研究者の大変さが伝わってきます。どうしても、予算を獲得できる研究が優先になってしまうので、本当に自分のやりたい研究ができているのかな、と気になってしまうこともあります。ただ、それでも京大はほかの大学と比べたらかなり恵まれていると思います。年に1〜2回ある技術職員の研修会に参加したときなどに、それを実感します。僕は京大の研究力が飛びぬけて高いとは思っていなくて、結局は予算と研究者の頭数に比例しているところが大きいのかな、という見方をしています。もちろん、恵まれているからこそ、技術職員としてもがんばらないといけないと自覚しています。

(左から)奥村良さん、奥村清さん、川端祐司所長

京都大学原子炉実験所
奥村良さん、奥村清さん、川端祐司所長

奥村良さんが加わるKURAMAプロジェクト

  • Facebook
  • Twitter

他の記事を読む