Biographies of Kyoto University's Personnel
京大人間図鑑
Vol.5

内田由紀子 こころの未来研究センター 准教授

近年、暮らしの豊かさを示す「幸福度」の指標作りが国内外で活発に行われています。他の国や地域との比較にとどまらず、固有の文化的特性の中で育まれる幸福感をどのように捉えるか。京都大学こころの未来研究センターの内田由紀子(うちだゆきこ)准教授は、文化・社会心理学の視点から、日本人の幸福感について研究しています。

内田由紀子
こころの未来研究センター 准教授

幸福感は、文化によって異なる。

――専門は、文化心理学・社会心理学とのことですが、研究を始められた経緯を教えてください。

内田准教授 高校生の頃、平家物語や今昔物語といった古典が好きで、文学部に入学しました。ところが何か違うなあと(笑)。しばらくして、自分が古文そのものを研究するのではなく、その物語から垣間見える登場人物の感情の動き、時代・文化の精神と「こころ」の関係性に興味があることに気付いたんです。それで三回生の時に教育学部に転部して臨床系の心理学を学ぶことにしました。

――教育学部で扱われるのは、主に臨床心理学や教育心理学ですよね?

内田准教授 心理学の道を選ぶ大きなきっかけとなったのが、臨床心理学者として有名な河合隼雄先生の『昔話と日本人の心』でしたので、心が抱える問題について触れるなら、まずは臨床だろうと思いました。しかしここでまた一種の挫折を味わいます(笑)。臨床心理士が目指す方向性ではありませんでしたし、一方で古典や昔話に見られるような過去の人の心を研究するには限界があると感じるようになったんです。そんなとき、当時総合人間学部にいらした北山忍教授との出会いがあり、比較文化というように横軸に広げて文化と心の問題を考えられる文化心理学・社会心理学こそ、私が本当に学びたいことだとようやく気付いたんです。

――文化心理学・社会心理学とは、どういったことを研究テーマとするのでしょうか。

内田准教授 文化や社会がどういった影響を心に及ぼすか、また、心がどのようにし文化や社会をつくりあげるか、その関係を解明することです。私はとりわけ、幸福を求めるルートが国や文化によって異なるという点に興味をもっており、認知・感情のしくみや対人関係の比較文化研究をテーマにしています。また、こころの未来研究センターに着任してからは、心に関する基礎研究を進めながら、その成果をどのような場所で活用することができるか、社会が抱える問題に対してどのように科学的知見をフィードバックするかについて模索しています。

――内閣府の「幸福度に関する研究会」に参加されていましたね。

内田准教授 研究会が発足された2010年から昨年まで、文化・社会心理学者の委員として、幸福度調査のための指標作成や、調査方法の設計などの議論に関わりました。

――国内外で、幸福度に関する調査やその研究が盛んになっている理由は何でしょうか?

内田准教授 OECD(経済協力開発機構)が、生活満足度調査を行って、幸福度の指標作りの国際的な流れを作っていることも大きいと思います。国の豊かさを示す指標として、先進国、発展途上国の双方で用いられてきたのは、経済指標であるGDP(国内総生産)ですが、国の豊かさは経済的側面だけではなく心のあり方にも関わっていると考えられるようになってきました。たとえば1970年代前半に、経済学者・イースターリンは「幸福のパラドックス」として、経済的満足感と幸福感は必ずしも一致しないこと、つまり「経済的豊かさが上昇したからといって幸福感が上昇するとは限らない」と指摘していました*。近年では、ノーベル経済学賞の受賞者らが参加したフランスのスティグリッツ委員会でも、GDPは生産性の尺度であり、幸福度の測定にはより広い概念を含めるべきだという報告がまとめられました。

――幸福度調査は、それぞれの国が目指す幸福の在り方を踏まえる必要がありますね。

内田准教授 そうですね。内閣府の研究会が目指したのは、海外との比較だけではなく「日本の幸福」をどのように定め、どのように測るか。日本の文化や社会をベースにした新しい「ものさし」を検討することでした。

――つまり、従来の日本にはそれがなかったということですか?

内田准教授 政府で継続的に調査を行うための包括的な尺度は持っていなかったと言えます。アメリカで用いられてきた「ものさし」で測ると、日本人の幸福度はどうしても低いスコアとなってしまう…何故か?それは、その「ものさし」がアメリカの文化や社会に根差した「個人の成功」を軸に作られていることもその一員ではないかと考えています。日本には「他者との調和」を求め、穏やかで安定的な幸せを求める文化がありますから、それらの尺度を取り入れることも大切だと考えています。

――まさに、文化・社会心理学の研究者ならではの視点ですね。ちなみにその尺度を用いる利点は他にもありますか?

内田准教授 日本文化の独自性をふまえていますが、物質的豊かさだけではなくて関係性の中にある幸福にも価値を見いだすことは、社会の持続可能性にもつながると考えており、日本から社会に発信できるのはないかと考えています。

ブータンでの持続可能な幸福に関する国際会議

*:様々な異論も提出されて、議論が続いている。

つながりの研究、研究のつながり。

――『農をつなぐ仕事』という興味深いタイトルの著書を出されていますね。

内田准教授 農業を営む方々に技術的なサポートやアドバイスを行って地域をつなぐ普及指導員という仕事にスポットを当てつつ、農村コミュニティに生きる人の心にフォーカスしたものです。こころの未来研究センターに「普及指導員」というテーマが持ち込まれた当初、どのようにアプローチするべきか悩みましたが、研究の転機となったテーマでした。

――どういった成果があったのでしょう?

内田准教授 日本人特有のメンタリティは、農耕文化によって形成されたと言われていますが、まさにその現場で調査・研究を進めて理解を深める機会を得たことは大きかったですし、何より、「つなぐ」仕事の役割の重要性をいろいろなところで感じることになりました。とかく心理学の調査は、学生を対象として行われがちなのですが、農業にたずさわる方々と直接対話を重ねることは貴重な体験でした。内閣府の研究会に参加していた時期と重なっていたこともあって、それまで個々に捉えていた「幸福の在り方」と「地域のつながり」を結び付けて考えるきっかけとなりました。

――農村には「個人の成功」よりも、「他者との調和」を重んじる文化があるように思います。

内田准教授 「そんなことをしては、あの人の顔をつぶす」とか、「新しいことをして目立つのは困る」、「それは分かっているけれど、先祖代々受け継いできた土地だから」といった声は、都市生活のどこかにも潜んでいる響きがあるように感じませんか?

――確かに、実際に口にするかどうかは別として、思考としては十分理解できます(笑)。

内田准教授 「社会」の変化に比べて、「文化」の変化はゆっくりとしたものなのかもしれません。例えば、2000年代以降、多くの企業で成果主義が導入されましたが、必ずしも全ての企業で上手くいったとは言えませんよね。競争意識が高まった結果、メンバー同士の知識や経験が共有されず、横のつながりが希薄になったり、短期的な業績を求めて、管理職が若手の育成に時間をかけず、縦のつながりが消失したりと、弊害が認められるケースも少なくありません。業績を評価する側もされる側も、新しい制度の導入といった社会の変化を文化として…あえて言い換えるなら、心のあり方として受け止められない人が多いのかもしれません。

――著書『ひきこもり考』では、そういった現代の心の問題に触れているわけですね?

内田准教授 「ひきこもり」は、日本の経済状況が停滞し始め、成果主義の導入が進んだ2000年代に入ってから多く見られるようになったといわれています。心のありようは、社会や制度の変化の影響を受けます。時として、心が付いて行かない事態も起こり得るわけです。そこで私は、社会や制度と比べると、変化に時間を要する文化と幸福感の関係性や構造に注目しています。最近は特に、企業とその理念に関心を持っています。

――企業の「理念」ですか?

内田准教授 グローバル化の波で、外資系企業で働く人が増えています。成果主義も日本式に修正され始めたように、海外から持ち込まれた企業理念がどのようにローカライズされていくのか。あるいは逆に、極めて日本的な文化を持っていた企業が、競争力を高めつつ、働きがいのある環境を作っていくのか。企業の文化の基となる理念や経営方針が、そこで働く人にどういった幸福をもたらすのか、フィールドワークを重ねつつ、学術的に研究していきたいと思っています。

――問題提起や、その解決だけでなく、学術的研究にこだわる理由は何ですか?

内田准教授 私はあくまで文化・社会心理学の研究者ですから、自分が出来る範囲のこととしては、やはり研究調査やアウトリーチ活動に加えて、学術論文という形で成果を残したいと考えています。論文で成果を出すことで研究者から関心を持ってもらい、社会における心の研究に多くの専門家が目を向けられるようにしたい。これまで注目されていなかった領域も、文化心理学や社会心理学によってアプローチできるのだということを示せば、新たな研究者や研究テーマが生まれて、研究に「つながり」ができるはずだと思っています。

――なるほど。発展という言葉が出ましたが、研究者としてご自身を振り返るとどのような変化が感じられますか?

内田准教授 大学院で研究を始めた当初と比べると、問題を抽象化して捉えることができるようになってきたと思います。目の前に来たボールを打ち返すのに必死だったのが、こういうボールが来たら、こう打ち返すぞ…みたいな予測をするようになったと言うのでしょうか、研究者としてのフォームが出来てきたような実感があります。あと、大きいのはライフステージの変化ですね。子供が生まれてから、これまで自分一人の時間軸でしか考えていなかった未来について、「この子が大人になる頃の社会や幸福感って、どんな風になっているんだろう?」と、長いスパンで見るようになりました。

――まさに「他者の幸福」を自分の幸福とつなげる変化が起こったわけですね(笑)。本日はありがとうございました。

内田准教授にとっての「京大の研究力」とは?

研究を高めてくれる学生や研究者が集まってくる環境であることだと思います。研究はチームプレイですから、将来、有望なメンバーとなる可能性と能力秘めた学生はとても貴重な存在ですし、惜しみなく教育に当たらねばと思っています。また、多くの刺激を与えてくれる海外の研究者は、京都の大学ということで私の研究室を選ぶことも少なくありません。多くの人を魅了する古都の大学であること自体が、既に大きなアドバンテージと言えますね。

内田由紀子(うちだゆきこ)
京都大学こころの未来研究センター 准教授/文化心理学・社会心理学

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