Behind Kyoto University's Research
ドキュメンタリー
Vol.29

分子の世界を支配する新しい法則を見つけ、エネルギーの未来を変える。「核の個性が顕在化する分子科学から水素社会の実現へ」

理学研究科 助教
金 賢得

くすのき・125

京都大学創立125周年記念事業の一つとして設立された学内ファンド*「くすのき・125」。このファンドは、既存の価値観にとらわれない自由な発想で、次の125年に向けて「調和した地球社会のビジョン」を自ら描き、その実現に向けて独創的な研究に挑戦する次世代の研究者を3年間支援するというものだ。
*「学内ファンド」とは、京都大学がめざす目標に向けて、京都大学が持つ資金を学内の教職員等に提供する制度のことです。

2020年度に採択された金賢得先生のテーマは「核の個性が顕在化する分子科学から水素社会の実現へ」。これまで見過ごされていた原子核の個性に注目した研究が、カーボンニュートラルな水素社会の実現に向けたブレイクスルーにつながるかもしれないという。直面する社会課題が研究の原動力になっていると言う金先生に、メッセージ動画とインタビューでお話を伺った。

新しい計算手法で「分子の世界を支配する魔法の法則」を解き明かす

まずは先生のご研究内容について教えてください。

「私の専門分野は非平衡量子動力学というもので、量子的に振る舞う原子や電子といったミクロな粒子群が示す多様なダイナミクスを、コンピュータを使った計算によって明らかにしようとしています。もう少し柔らかく言うと、私たちが暮らす世界を構成するミクロな分子群を支配している魔法の法則ですとか、あるいは分子群が示す新しい現象を理論家として理論的に予言するというのが研究の目標です。

その中でも、最近主に取り組んでいるのが水素系のダイナミクスです。私はこれまで、水素分子を構成する原子核と電子を『波』として表現する、水素系の量子分子動力学法という新手法を開発してきました」

耳慣れない言葉ですが、量子分子動力学法は一体どのように新しいのでしょうか。

「ご存知の通り、水素分子は2つの水素原子で、さらに水素原子は原子核と電子で構成されています。こうした粒子の振る舞いを研究する際、これまでは多くのパラメーターを含むモデルポテンシャルを用いて電子部分を表現し、さらに原子核については調和振動子バネでつながれた複雑な粒子の運動を解く計算が必要でした。

一方、私が開発した新しい手法では、原子核と電子の『量子性』、つまり粒子でありながら波としても表現できる性質に注目します。原子核と電子を数学的に波、正確には『波束』として同時に扱うことで、モデルポテンシャルを一切使わず計算を実現することができるのです。これによって、水素分子1個からそれが集まった液体や固体の状態まで、あるいは低温から高温まで、静かな状態である平衡状態から、多彩な非平衡状態まで、あらゆる状態を計算できるようになりました。この新手法を使って、さまざまな実験結果を理論的に再現したり、分子のダイナミックな振る舞いのからくりを新たな描像として提示したりすることに取り組んでいます」

水素系の量子分子動力学法によるシミュレーションのスナップショット

さまざまな原子や分子が存在する中で、水素に注目されているのにはどんな理由があるのでしょうか?

「水素は原子番号1の最もシンプルでありながら不思議なふるまいを示す元素のため、基礎研究の対象になってきたというのはもちろんなのですが、私が研究する理由としては、第1に『くすのき・125』のテーマとしても掲げた『核(原子核)の個性』があらわれやすい分子であるということ、第2に、水素社会の実現に貢献できるテーマであるということがあります」

原子核と水素社会がどのようにつながるのか、「くすのき・125」についてのお話の中で詳しくお聞きしていきたいと思います。

調和した水素社会への鍵は、2種類の水素を制すること

「くすのき・125」では125年後に向けた調和した地球社会のビジョンについて伺っています。先生のビジョンについて教えていただけますか?

「私が考える125年後の社会は、カーボンニュートラルな水素社会です。絶えずエネルギーを消費する人間社会と自然環境を調和させるには、化石燃料に頼らず、水素からエネルギーを取り出して利用する水素社会の実現が重要です。

環境問題だけではありません。現在、不毛の地と言われている砂漠や海岸線といった土地で、太陽光や風力を利用して水素エネルギーを生み出し、世界中に輸出できるようになれば、それこそ新たに油田が湧くに相当するほどの価値を生み出すことができます。そのようにして経済的に貧しい地域が活性化すれば、地球上にある地域格差を解消することにもつながります。この意味でも、水素社会は調和した地球社会の象徴といってよいでしょう」

水素エネルギーといえば、水素と酸素を反応させることによって電力を生み出し、水だけを排出するクリーンなエネルギーとして注目を集めていますね。水素自動車などの実用化も徐々に進んでいますが、コスト面や安全面などの課題も多いと聞きます。

「おっしゃる通りで、実は水素社会には大きなボトルネックが存在します。その大きな一つが、パラ水素の純化精製です。

エネルギー的には、水素分子にはパラ水素とオルソ水素(オルト水素)という2種類が存在します。その違いは水素分子が持つ2つの原子核のスピンの向きが揃っているか、揃っていないかで、わかりやすく言えば核が回転しているか、回転していないかという点にあります。パラ水素は核が回転しておらず、エネルギーが最も低い基底状態。オルソ水素は逆で、核が回転していてエネルギーが高い核の励起状態です。

通常、常温で水素を作ると7:3の割合でオルソ水素が多く精製されます。仮にその水素を冷やして液体水素として貯蔵するとしましょう。そうすると、オルソ水素は時間が経つにつれ、エネルギーがより安定なパラ水素に化学転換していきます。このとき、放出されたエネルギーによって水素自体が一気に高温化して蒸発してしまいます。これでは貯蔵や輸送を行う上で、とても安全とは言えませんよね。

そこで現在はどうしているのかというと、一度水素を精製し、常に水素全体を冷やし続けることで、急激な高温化や蒸発を防いでいるんです。この一連の冷却のために、最初に作った水素のおおよそ30%程度が消費されてしまっています。オルソ水素をパラ水素に効率的に化学転換する技術も研究されていますが、実用に見合うような低コストな方法はまだ見つかっていません」

オルソ水素からパラ水素への転換のイメージ

水素エネルギーの安全性を確保するために、時間もエネルギーもお金も余分にかかることが普及への障害になっているのですね。そこで先生は、「核の個性が顕在化する分子科学から水素社会の実現へ」というテーマを掲げていらっしゃいますが、どのような研究でこの課題を乗り越えようとされているのでしょうか。

「はい。くすのき・125ではまさに、このパラ水素の純化精製につながる研究に取り組んでいます。最初にお話しした水素系を計算する新手法は、基底状態であるパラ水素の量子分子動力学法でした。くすのき・125ではまずこれを発展させて、オルソ水素の量子分子動力学法を確立したいと考えています。パラ水素とオルソ水素、両方の計算ができるようになれば、両者にどのような性質の違いがあるのかを原子や電子のレベルから理論的に明らかにでき、パラ水素の純化精製に役立てることができます。さらに言えば、回転励起という核の励起状態を対象にした量子分子動力学法はまだ全く存在しないので、この計算手法の開発自体に学問的に非常に大きな価値があります。

ここまでが第一段階で、第二段階ではパラ水素の純化精製の具体的な方法を探ります。先行研究ではレアメタルを触媒に使って化学転換を起こしパラ水素を精製する方法が検討されていますが、高価なレアメタルを使えばお金がかかり、また触媒を使っても化学転換にはそれなりの時間がかかります。そこで、私の研究では発想を変えて、パラ水素のみを物理的に分離することを考えました。具体的には、第一段階で解明したパラ水素とオルソ水素の性質の違いを最大限に利用して、パラ水素のみを選り分けることができるナノ空間、多孔性ナノ空間をデザインします。それから合成実験家の方と共同で実際にそのナノ構造を作り、パラ水素の純化精製に取り組みます。パラ水素とオルソ水素の混合物をナノ構造に流し込んで、ふるいにかけるようなイメージですね」

新たな計算手法の確立、シミュレーション、実験による証明まで一気通貫の計画なのですね。水素社会が一歩近づきそうです。

多孔性ナノ空間を使ってパラ水素とオルソ水素を分離するイメージ

「核の個性」に着目した新しい分子科学を拓きたい

ところで、研究タイトルにある「核の個性が顕在化する分子科学」とはどんなものなのでしょうか?

「その前提として、これまでの分子科学では原子核の個性はほとんど注目されていませんでした。サイエンスの世界でよく聞く言葉に、『世の中、原子核以外は全て化学でできている』というフレーズがあります。言い換えると、電子の振る舞いこそが全ての物性や現象を決めていて、原子核はさほど重要ではないという意味です。実際、分子科学の計算上では原子核はただの質点として扱われることが多いのが現状です。

くすのき・125の研究タイトルには、こうした認識に対して、原子核の多様性に着目した新しい分子科学を創っていきたいという思いを込めました。パラ水素とオルソ水素のように、原子核が持つ多様性が物の性質を支配するようなケースは多々あります。原子核はただの質点ではなく、その個性を自由度や動きのある量子的波として考慮しなければ真実を表現することはできないわけです。

先ほども少し触れましたが、水素核はすべての核の中で最も質量が軽いため、原子核の個性も顕著にあらわれます。専門的に言うと、原子核の量子性が出やすいということです。その個性はときに世の中に大きな影響を与えます。水素核の大きさは0.1オングストローム(1億分の1mm)という非常に小さなものですが、例えば水素核の回転の有無というパラ水素とオルソ水素の違いが水素社会を実現できるかどうかを決めるというのは、非常にロマンがありますよね」

お話を伺っていて、金先生は自然の姿をあるがままに捉えようとされているように思いました。研究で大切にされている視点はありますか?

「自然の多彩さが現れる非平衡現象にずっと興味を持ってきました。どんな物質を研究するにしても、教科書ではまず平衡状態、つまり最も静的な状態から学び始めます。そのほうがシンプルで理論を作りやすく、研究の歴史が長いため成果の蓄積もあるからです。しかし、そんな平衡状態から逸脱した非平衡状態にこそ、本当の自然界の豊かさ、多彩さ、そして面白さが現れるのではないでしょうか。これが、私が研究経験を通して培ってきたサイエンス観です。

考えてみると、人間活動もすべて非平衡状態の中で行われていますよね。私たち自身を含め、身の回りの物質の温度や密度は常に変化していますし、動き回っています。

大切にしている視点をもう一つ挙げるなら、化学や物理といった既存分野の境界を意識しないことです。私はもともと古典的な統計物理を専門にしていて、縁あって今は化学系の研究ポストに就かせていただきました。そうした経験から、研究に活かせる知見は分野に関わらず分け隔てなく取り入れるようにしています。私の研究は、化学の人からは『こんなの化学じゃない』、物理の人からは『これは物理ではない』と言われることもありますが、くすのき・125ではそういう面も含めて『おもろい』研究ということで採択していただいたと思っているので、むしろ前向きに捉えるようにしています」

震災で感じた無力感が、研究を通じた社会貢献の原動力に

社会に貢献するという視点も強く持っていらっしゃるようですが、それには何かきっかけがあったのでしょうか?

「昔は純粋に知的好奇心に突き動かされるようにサイエンスの世界に浸っていたのですが、社会に目を向ける大きな転機になったのは東日本大震災でした。震災の被害や原発事故のニュースを日々目の当たりにして、研究者としての圧倒的な無力感を感じたんです。あの時の無力感になんとか応えなければいけないという使命感が、今も胸にあります。例えば震災以前の私だったら、オルソ水素の量子分子動力学法を開発できたらそれで満足していたかもしれません。今ももちろんサイエンスをとても楽しんでいますが、さらにその先、どうやってそれを世の中のために還元できるかを常に頭の中で意識するようになりましたね。

そして、そうした意識を持つようになってはじめて気づいたこともあります。基礎研究と社会実装は、それぞれ『入り口』と『出口』というふうにしばしば表現されます。基礎的なサイエンスが『入り口』で、それをどうやって社会実装という『出口』につなげるかという構図なのですが、私はこれまでの研究経験から、入り口から出口へは一方通行ではないんじゃないかと考えるようになってきました。今回のパラ水素の純化精製に関しても、研究費を出してくださる企業の方から困りごとを聞いて、私の研究ならそれに応えられると確信して基礎研究に取り組んできたという経緯があります。社会という『出口』は、基礎的なサイエンスの『入り口』にも繋がっているのではないでしょうか」

金先生の研究は、トヨタ・モビリティ基金による「水素社会構築に向けた革新研究助成」(2017年度)に選定された。写真は研究費の授与式の様子

とても素敵な考え方ですね。最後に、これから挑戦したい研究についてお聞かせいただけますか?

「くすのき・125で取り組んでいるオルソ水素の量子分子動力学法については、実はもう論文を書き上げて投稿しています。なので、次はいよいよナノ構造を使ってパラ水素とオルソ水素を分離する工程に取り組んでいきます。

さらに長期的には、水素分子以外の分野でも核の個性に着目した研究を発展させていきたいです。より質量の重い様々な原子核において核の量子性がどの程度出現して個性が現れるのかは、学問的にも興味があります。あるいは同じ水素核でも、水素核を2個も含む水分子や、水素核に覆われていると言える有機分子の量子分子動力学法を開発できれば、物理、化学、生物、地球科学など、あらゆる分野に大きなインパクトを与えられるでしょうね。これからもサイエンスに胸を躍らせながら、調和した地球社会に貢献できる研究に取り組んでいきたいと思います」

金 賢得(キム ヒョンドゥッ)

理学研究科 助教

京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程修了。2004年、同 理学研究科助手。2007年より現職。2013年から2018年まで、科学技術振興機構「さきがけ」研究員。専門分野は粒子群の非平衡量子動力学。研究テーマとして水素系の量子分子動力学法の開発のほか、半導体をはじめとしたナノマテリアルの光励起ダイナミクスにも取り組む。

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