Behind Kyoto University's Research
ドキュメンタリー
Vol.39

地域の健康を守る保健師とともに、ウェルビーイングな未来を創る。「公衆衛生看護ケアのイノベーション基盤の構築」

医学研究科 准教授
塩見 美抄

くすのき・125

京都大学創立125周年記念事業の一つとして設立された学内ファンド*「くすのき・125」。このファンドは、既存の価値観にとらわれない自由な発想で、次の125年に向けて「調和した地球社会のビジョン」を自ら描き、その実現に向けて独創的な研究に挑戦する次世代の研究者を3年間支援するというものだ。
*「学内ファンド」とは、京都大学がめざす目標に向けて、京都大学が持つ資金を学内の教職員等に提供する制度のことです。

医学研究科・塩見美抄先生は「公衆衛生看護ケアのイノベーション基盤の構築」というテーマで2021年度に採択された。誰もがウェルビーイングに暮らせる社会に向けて、保健師という仕事が果たす役割とは? メッセージ動画とインタビューで伺った。

地域社会の健康課題を見つけ、解決する保健師の仕事を支えたい

まずは、塩見先生のご専門分野について教えてください。

「私の専門は看護学です。と言っても病院で患者さんを対象にするような看護ではなく、地域社会で暮らす人々が健康に生きられる環境を整える、公衆衛生看護学という分野に携わっています。そのなかでも、これまでは地域の看護専門職である『保健師』の役割に着目してきました。現在はもう少し視野を広げて、ウェルビーイング(well-being)をいかに実現するかという視点で新たな研究にも着手しています」

まずは、保健師の役割に着目した研究について教えてください。

「保健師は、主に行政の立場から地域社会の健康課題に取り組む専門職です。実は私自身、看護学部を卒業して保健師として働いていた経験があるのですが、私はこの仕事を『実践しながら思考する職業』だと捉えています。日々、困りごとを抱えておられる方からの相談を受けたり、家庭を訪問したりといった実践のなかから地域の課題を見出し、解決に取り組むことが求められるからです。

しかし、近年になって現場の保健師さんから『地域の健康課題を見つけることができない』という声を聞くようになりました。その背景には、健康指標などの二次的なデータばかりが重視され、実践から得られた貴重な一次情報が埋もれてしまっているという状況があります。データは数が集まるので、全体の傾向を把握することには有用です。しかし、データに上がってこないような些細な兆候であっても、将来的には大きな問題につながりかねない「種」が現場には隠れているんです。それぞれの保健師が、本来見えているはずの問題に向き合い、健康課題として取り上げる力を身につけることが重要だと考えました。

そこで私は、熟達した保健師の日々の思考や視点の向け方に着目し、実践から地域の健康課題を見出す思考プロセスのモデル化に取り組んできました。各自が現場で無意識に考えていることを言語化して共有することで、潜在的な課題を見出し、解決策を実践の場に還元するという創造的なサイクルを生み出したいと考えています。この研究成果をもとに保健師向けの動画教材を作成し、今年3月に公開しました」

塩見先生が作成した保健師のための動画教材(後述の「公衆衛生看護イノベーションセンター」より)

統合失調症の人が自分自身に「マル」をつけられる指標づくり

そこからさらに視野を広げた研究に取り組まれているということですが、それはどんな内容なのでしょうか。

「これまでの研究は主に保健師さんの仕事を支えることで人々の健康に貢献するものですが、保健師さん側からのアプローチだけでは限界があります。そこでもうひとつ、地域で困りごとを抱えておられる方を直接的に支える研究にも取り組み始めました。それは、統合失調症の方のウェルビーイングに貢献するセルフアセスメント指標の開発というものです」

ウェルビーイングというと、病気や障害の有無にかかわらず、身体的、精神的、社会的に充足した状態をさす言葉として使われることが多いですね。

「はい。私はウェルビーイングを『自分自身の生き様に肯定的であること』だと捉えています。その日の気分によって変わる幸福感とは違い、いつでも『自分はこれでいい、悪くない生き方だ』と思えることがウェルビーイングです。

一般的に、統合失調症の方はウェルビーイングが守られにくい状態にあります。周囲からはどうしても『できないことが多い人』『健康レベルが低い人』として見られてしまい、ご本人も『自分はこの程度で仕方ないんだ』と思いこんでしまうからです。そのように自己否定を繰り返すことで、病状が悪化して自分ではどうにもならない状態に陥り、入退院を繰り返す方もいらっしゃいます。

統合失調症は一定割合で誰にでも起こる可能性のある病気です。かかってしまっただけで未来の可能性を奪われてしまうというのはあまりにも理不尽です。そんな状況を変えるには、『障害はあるかもしれないけれど、幸せに生きています』と胸を張れるような何かが必要だと考えました。

そこで、現在の自分の状態を前向きに捉えるためのセルフケア・アセスメント指標、つまり自己評価のチェックリストというものを考えました。現在、症状別の状態を査定するチェックリストというものはあるのですが、いずれも『どれだけ悪い状態か』をチェックするものなんです。減点方式では当事者の方の自己評価はゼロかマイナスにしかなりません。私が開発しようとしているのは、逆にどれだけ状態がいいかを評価する加点方式のチェックリストです。当事者の方が自分にマルをつけてあげることで、『調子が悪いときもあるけれど、ハッピーなときもあるんだ』と自分を客観的に見つめることができますし、周囲の見方もそれと同じように変えていくことができるのではないかと考えています」

職業人とハンディキャップの当事者という違いはありますが、どちらの研究も、人に働きかけてその力を引き出すような視点が共通しているように思いました。なぜこうした研究に取り組もうと思われたのでしょうか?

「私自身が保健師として活動するなかで学んだことがとても大きいですね。病院ではなく地域で働く保健師という仕事のやりがいは、他の人と多少違うところがある当事者の方でも、地域社会の中で自然にその人らしく生きられるようにサポートできることにあります。私も仕事を通して、ハンディキャップを抱えながらも生き生きと楽しく生きておられる方にたくさんお会いしました。

とくに印象に残っているのは、ご自身も統合失調症の当事者で、ピアサポーターとして他の当事者の支援に携わっておられる方のことです。その方は誰に対しても優しく気配りのできる方なんですが、とくに同じ当事者の方に対しては、相手の苦しみを自分のことのように親身になって理解し、寄り添っておられました。サポートを受ける方もその方にだけは心を開いて、私達にはなかなか話してもらえない症状についても話しておられたんです。私も保健師として当事者の方に精一杯寄り添ってきましたが、その方のようにはなれないなと思いました。ご自身で苦しみを経験したその方だからこそ、できることがあるのだと気づかされた出会いでした。

そうした出会いを重ねるうちに、私も含めて世の中の目線がとらえそこなっている当事者の方々の人となりがたくさんあるのではないか、それが生きにくさにつながっているのではないかと考えるようになりました。その目線を変えることで、誰もが生きやすい社会を作りたいという思いが現在の私の研究の根底にあります。そしてこの思いは、くすのき・125での取り組みにもつながっています」

保健師を中心に、ウェルビーイングな未来をつくる拠点づくりを

くすのき・125では、125年後に実現させたい調和した地球社会のビジョンをお聞きしています。塩見先生のビジョンをお聞かせいただけますか?

「125年後には年齢や障害、そのほかあらゆるハンディキャップの有無にかかわらず、どんな人でもその人らしく、ウェルビーイングに暮らせる社会が実現することを思い描いています。そのためには、健康・ヘルスケアに関する研究知見が社会に還元され、活用されることが不可欠です。人々が自らそうした知見を生活に取り入れることはもちろんですが、自分自身では取り入れるのが難しい方にもさまざまな知見にもとづく支援が行き渡り、あるいは社会そのものが変わることで、誰しもがウェルビーイングに生きることを保障されている社会こそが、調和した地球社会と言えるのではないでしょうか」

ビジョン実現に向けて、塩見先生はどんな課題に取り組まれるのでしょうか。

「現状、地域社会と大学の研究との間にはまだまだ大きな隔たりがあります。研究知見を社会に還元するためにまずは拠点が必要になるでしょう。私のライフワークとして、2つの視点から実践のための拠点作りに取り組みたいと考えています。

ひとつは、研究と実践の間にある谷間に橋を掛ける、ブリッジとなるような拠点です。公衆衛生看護学に関しては新しい研究知見が次々と発表されていますが、現場で活用されないまま消えていく物も非常に多いと感じています。実際、私の開発した保健師の教育プログラムも、残念ながら私の周囲の保健師さんにしか還元できていませんでした。そこで、保健師を始めとする現場の方々が研究知見に自由にアクセスして、利用したいときに利用できるアーカイブのような場を作ることが必要だと思い至りました。

もうひとつは、実践のあり方を刷新し、未来のビジョンを示すような知見を生むイノベーション拠点です。公衆衛生看護の分野では、現在ある枠組みのなかで課題を解決するような研究が大半を占める一方で、保健師という仕事がどんな未来に向かっていくのかというビジョンを示す研究は非常に少ないと感じています。過去からの積み重ねはもちろん大切なのですが、対策を付け加えていくだけでは目の前のことしか見えないので、現場が疲弊する一方ではないかと思います。こうした現状を根本から変えるため、斬新な発想ができる現場の保健師が集まって、めざすべき未来についてディスカッションできる場をつくりたいと考えています」

くすのき・125ではどのようなことに取り組まれるのでしょうか?

「オンラインの拠点として、『公衆衛生看護イノベーションセンター』(https://www.phn-innovation.com)というウェブサイトを開設しました。このサイトでは大学と現場の保健師との橋渡しを目的として、〈実践の改善のための知見の蓄積(practice innovation)〉と〈未来に向けた知見の蓄積(knowledge innovation)〉の2つのサービスを提供しています。

「公衆衛生看護イノベーションセンター」トップページ。ニーズに合わせて柔軟に作り変えられるように、外部に委託せず自作することにこだわった

〈実践の改善のための知見の蓄積〉では、私自身の研究成果を含むさまざまな研究知見をわかりやすく紹介していきたいと考えています。ここでは先ほどお話した保健師のための動画教材を公開しており、多くの方にアクセスいただいていますが、今後も随時記事を追加していく予定です。最新の研究知見をスピーディーに紹介していくために、賛同してくださる先生や学生さんと共同で運営しています。

〈未来に向けた知見の蓄積〉についてはまさにこれから、くすのき・125の3年間を通じて展開していきます。所属する組織や業務の枠組みにとらわれない、斬新な発想をもった実践者を集めることが第一歩ですね。既存の公衆衛生の概念にとらわれずに世の中を広く捉えて、未来を創造する視点をもった保健師さんに集まっていただいて、ワークショップを通じて未来への提言をまとめ、社会に発信することを考えています。その過程や成果はウェブサイトで公開します。

まずは保健師さんがよく読んでいるジャーナルにメンバー募集の記事を出すところからはじめて、3年後には未来像についての一定の答えを世の中に発信するところまで実現したいと思っています」

保健師はやわらかく社会を変革する活動家

塩見先生の考えておられる保健師という仕事について、もう少しお聞かせいただけますか?

「私のイメージする保健師は、人々を巻き込みながら社会を変革していく社会活動家です。といっても過激な変革を推し進めるのではなく、健康という面から誰もが受け入れられる形でやわらかく社会を変えていく。これまでも、そしてこれからも保健師がそのような役割を果たす事ができれば、私の思うビジョンを実現できるのではないかと考えています。

たとえばかつて地域社会のなかで、統合失調症の方はご家族を含めて周囲と関係を持たず、隠れるように暮らすことを強いられていた時代がありました。そんな人々を間近に見ていた当時の保健師さんが、当事者の方の居場所づくりをゼロベースで始められたのです。それが現在の地域活動センターや当事者のNPO法人へと発展しています。気づいた問題に対して、すぐにできるところから着手していけば、いずれ事業化して予算に組み込まれるという事例もこれまでに多々ありました。

先達のそのような働きのおかげで地域社会が良い方向に変わってきたので、今、現場でゼロから新しいことをはじめる必要性を感じておられる保健師さんは少ないのかもしれません。また、必要性は感じておられても、日々の業務に忙殺されてしまっている保健師さんもいらっしゃるでしょう。しかし、社会の環境はめまぐるしく変化していて、ネット依存など新たに対処すべき健康課題も出てきていることも事実です。

もちろん、保健師さんにもいろいろな方がいらっしゃいます。たとえ少数派であっても、まずは現状を変えたいと本気で思っている保健師さんがもっと輝けるように後押しをして、ゆくゆくはさらに多くの保健師さんを巻き込んでいきたいと思っています」

さまざまなマイノリティの方に対する社会の認知が進みつつある一方で、社会全体を見るとますます不寛容で生きづらい世の中になってきている面もあるように思います。

「そうですね。だからぜひ自分ごととして想像してみていただきたいのです。一生涯のうちに統合失調症を発症する人の割合は約100人に一人といわれています。だれがなってもおかしくない、身近な病気なんですよね。それだけではなく、歳をとればだれもが多かれ少なかれハンディキャップを背負うことになりますし、誰しもみんなと違う部分はあると思います。みんなと同じように生きることしか許容されない社会では、自分自身も生きにくいですよね。

私がこうした研究活動に取り組む理由も、つきつめれば自分自身が病気になったり、高齢になっても幸せに暮らしていきたいと思っているからかもしれません。みんなが自分ごととしてとらえることで、誰もが生きやすい社会が近づくのではないでしょうか」

塩見 美抄(しおみ みさ)

医学研究科 准教授

千葉大学看護学部 卒業。保健師として勤務後、2008年に神戸大学大学院医学系研究科博士課程修了。兵庫県立大学看護学部准教授などを経て、2020年より現職。専門は公衆衛生看護学で、地域社会の健康管理を担う保健師の地域アセスメントのモデル化と教育プログラムの開発などに携わる。

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