Behind Kyoto University's Research
ドキュメンタリー
Vol.4

生命倫理学のあるべき姿

文学研究科 児玉聡 准教授
医学部附属病院 佐藤恵子 特定准教授
iPS細胞研究所 鈴木美香 研究員

生命倫理学は、医科学研究や保健医療に関わる倫理的・法的・社会的な諸問題に取り組む学問であり、近年のテクノロジーの発展にともない、その重要性が高まっている。京都大学の融合チーム研究プログラム―SPIRITS―の支援を受け、研究領域を横断した取組により現代の諸課題に対応し、かつ次世代の研究者の育成をも目指す生命倫理学のプロジェクトが立ち上がった。生命倫理学の役割や、課題は何であるか。プロジェクトの中心メンバーに聞いた。

生命倫理学、その成り立ち

 「生命倫理学(Bioethics)」は、文字通り、「生命(Bio)」と「倫理・倫理学(Ethics)」を結び付けた造語である。1970年代のアメリカで生まれた比較的新しい学問領域で、その代表的な研究機関の一つであるジョージタウン大学・ケネディ倫理研究所が編纂した『生命倫理百科事典』では、「生命科学と保健医療の道徳的諸側面の体系的研究。学際的環境においてさまざまな倫理学的方法論を用いる」と定義され、今日では人の生命、医学的側面が強調されている。

 プロジェクトリーダーである京都大学文学研究科の児玉聡准教授は、「次世代の生命倫理学を担う研究者を育てるための学際的な教育プログラムは、国内にはほとんど見られない」と指摘し、海外では、生命倫理研究センターや修士課程のコースを設置する大学や研究機関が増えている中、日本の研究の立ち遅れを危惧している。

児玉 聡 准教授(文学研究科)

 児玉准教授は、前任校の東京大学で、医療従事者・医学研究者、大学院生を対象とした生命倫理教育プログラムに約10年間携わってきた経験から、「京都大学を拠点とする領域横断型の生命倫理の研究・教育体制の構築」するプロジェクトを立ち上げるという考えにいたった。学部生・大学院生を対象の中心とし、学際的な素養を持つ生命倫理学の教育・研究を行える人材を育成することを目指すのである。

 生命倫理学は、「医療現場における医師・患者の関係」、「医学研究における研究者・被験者の関係」、さらに「新しい医療技術が社会にもたらす倫理的・法的問題」と、人の生命を取り巻く様々な問題を扱う。そのため、生命科学、医学、薬学、看護学に限らず、哲学、心理学、宗教学、文化人類学などの人文学や、法学、経済学、政治学、社会学をはじめとする社会科学の知見を集めることが求められる。

 児玉聡准教授は、生命倫理学の教育・研究は「学際的に行う必要がある」と強調し、その背景として、生命倫理学の誕生と発展を促した「患者の権利運動」、「医学実験の規制」、「臨床医療の技術革新」、「生命科学の発展と社会規制」という四つのきっかけを挙げる。

 「患者の権利運動」は、アメリカで1960年代から1970年代にかけて起きた様々な社会運動(黒人差別撤廃を訴える公民権運動、ベトナム戦争反対運動、女性解放運動)の流れを受けて、患者の意向を尊重しない医療のあり方を批判する形で起こり、医師から十分な説明を受け、理解した上で患者が同意する「インフォームド・コンセント(正しい情報を得た上での同意)」という概念を生んだ。

 リスク(危険性)とベネフィット(利益)を開示し、コンセンサス(合意形成)を取るという基本的な考え方は、医学実験における研究者と被験者の関係においても重要視され、その規制を促す素地を作った。また、医療技術の発展は、人工呼吸器の取り外し、脳死・臓器移植、出生前診断といった医療措置の選択を患者本人以外の関係者に委ねざるをえないケースを生み出し、判断基準や手続きを示したガイドラインの設定、それらを取り巻く法の整備が急がれることとなった。

創薬研究(基礎研究から臨床研究のイメージ) イラスト:田中麻衣子

 近年、生命倫理学は、「患者の権利運動」、「医学実験の規制」、「臨床医療の技術革新」といった医療の分野のみならず、ヒトゲノム研究、クローン個体作製、あるいは幹細胞研究を含む、生命科学(ライフサイエンス)の分野における倫理的・法的・社会的問題にも取り組むことが求められている。言うなれば、今だけでなく、これからの人の生命の在り方を議論・検討し続けることが求められる学問領域なのだ。

 とりわけ、人あるいは、幹細胞をはじめとするヒト由来の細胞や組織を用いる研究が適正に行われるためには、どのような手続や体制、そして教育が必要かを扱う「研究倫理」や、終末期医療や生殖補助医療など臨床現場における望ましいあり方を検討する「臨床倫理」の分野は、最先端の医科学研究を行い、超高齢化・少子化社会に備えなければならない日本においては、特に注力すべき領域であると言われている。

 プロジェクトのコアメンバーとして、がん医療や臨床研究などの「臨床」の現場を知る医学部附属病院の佐藤恵子准教授と、「研究」を支援する立場にあるiPS細胞研究所の鈴木美香研究員を迎えていることからも、国内の生命倫理学で対応すべき課題と向き合い、学際的研究をリードしながら、教育体制を構築するという狙いをうかがうことができる。

臨床、研究、政策の課題解決のために

 生命倫理学が対応すべき領域、すなわち、プロジェクトチームが研究・教育体制の確立を目指す領域は、臨床(医療)、研究(生命科学)、政策(ガイドライン)の大きく三つの分野に分けることができる。

 国立がん研究センターをはじめとする、臨床試験や終末期医療の現場を数多く経験してきた佐藤准教授は、「臨床における倫理的問題の解決には、まずはスペシャリストである医療従事者が主体的に動くべき」と語り、行政に任せ切るのではなく、現場に合ったガイドラインのモデル作りに意欲を見せる。

佐藤恵子 准教授(医学研究科)

 70年代、アメリカを中心に生み出された「インフォームド・コンセント」という概念は、それまであった、患者のことを最もよく知るのは専門家である医師なので、患者は医師の決定に従うべきであるという「パターナリズム(医療父権主義)」に代わるものであったが、「説明/理解」と「合意」から成るその手続きが、日本の医療現場で義務付けられたのは、90年代に入ってからと大きく遅れた。

 ここで「倫理」という言葉を整理する必要があるかもしれない。「倫理」は「道徳」と同義とみなされることが多いが、個人が社会・人間関係の中で自然と身につける「道徳(moral)」に対して、生命倫理で使われる「倫理(ethics)」は、特定の公的な状況、例えば医療の現場における規範という側面を持つ。つまり「倫理」は、一定の価値基準による規則・対処法であり、「道徳」のように習慣的に身に付くものでもなければ、属人的に実践されるものでもない。

 だからこそ、佐藤准教授は、現場が中心となってガイドラインを示すべきだと主張する一方で、従うべき「一定の価値基準」を設定するためにも、哲学や倫理学をはじめとする人文科学系の知見は欠かせないと言う。例えば、終末期医療の場で、延命措置をいつまで取り続けるのかといった議論は、現場の人間の「道徳」に委ねるのではなく、日本人に固有の死生観や伝統・文化、患者を取り巻く人々の感情面への配慮を踏まえた「倫理」を検討しなければ完結しない。また、佐藤准教授は、アメリカではリテラシーの問題から口頭による説明と合意が行われることも少なくない「インフォームド・コンセント」も、識字率の高い日本で実践、普及させるのであれば、発展的に精度を高めることできるのではないかと、日本式「臨床倫理」の可能性を指摘する。

クローン技術も生命倫理における重要なテーマである イラスト:田中麻衣子

 「日本国内には、適切な研究審査を行える倫理委員や、審査ノウハウの蓄積が絶対的に不足している」と語るのは、iPS細胞研究所・上廣倫理研究部門の鈴木美香研究員だ。今日のES・iPS細胞技術を用いた再生医療に代表される最先端研究は、その実施に際して、各研究機関に設置された研究倫理委員会が審査を行う。しかし、「研究倫理」を検討する場においても、先に述べた「倫理」と「道徳」の混同は、少なからず起きているのではないかと、鈴木研究員は指摘する。つまり、多くの審査委員は、提出された書類をどういった基準で審査すれば良いか分からず、研究計画内容そのものの審査ではなく、書面上の言い回しや、表現など、慣習的に理解できる範囲のチェックに留まっているのではないかということだ。

 現在、鈴木研究員は、iPS細胞を用いた臨床研究に必要な倫理審査の手続きを含む、法令・指針の遵守に向けた研究支援活動を行っているが、かつて所属していた理化学研究所では、その業務遂行に求められる知識やスキルが広範囲に及ぶことを知り、臨床研究専門職として新たに学び直す必要があったと言う。また、プロジェクトリーダーの児玉准教授は、「個々の研究者に関しても、倫理教育を十分に行わなければ、研究不正や利益相反の問題が収まらず、国際的な研究の遅滞を招く可能性がある」と、生命倫理学における教育プログラム構築の重要性を説く。

 臨床、研究、政策と、生命倫理学が直面する課題に対応するためには、生命科学や医療に対する解決策等を提言し、実践するシンクタンクとしての研究センターの設立と、次世代を担う研究者育成のための学際的な生命倫理教育プログラムの実施、適切な研究審査のできる委員や、医療現場で起きる倫理的問題に対処できる倫理コンサルタントなどの人材育成が欠かせないと、児玉准教授は、研究・教育体制の構築の狙いを定めている。

 「京都大学を拠点とする領域横断型の生命倫理の研究・教育体制の構築」プロジェクトは、京都大学の融合チーム研究プログラム―SPIRITS―の認定を受けて活動している。児玉准教授、佐藤准教授、鈴木研究員の3名をコアとして、海外の研究者を含む20名を越えるメンバーが参加し、体制の構築に必要なネットワーク作りを積極的に行いながら、メーリングリストの作成による研究・教育リソースの共有、プロジェクトのホームページでの情報発信、海外研究者との国際ワークショップの実施、学内の院生、ポスドクに向けた生命倫理学の短期集中コースの準備など、様々なアクションを取っている。

 「各分野の専門家が集まって、それぞれの立場から理論を述べるだけではなく、思想や考えたことを研究や医療の現場で実践できる形にしたモデルを打ち出すことが肝心」であると、佐藤准教授は繰り返す。2000年代以降、ようやく国内でも生命倫理に関連する研究が本格化し、多くの機関や学会がそれぞれに倫理ガイドラインを作り始めたが、学際的な検討を重ね、現場で使える形になったものは、まだ数が少ない。生命科学の現場である研究機関と、医療の現場である附属病院の二つを併せ持つ総合大学が、生命倫理学の議論の活性化に果たすべき役割は大きい。

生命倫理は誰のもの?

 プロジェクトのコアメンバーである3人に「生命倫理は誰のものであるか?」という質問を向けてみたが、案の定、全員から「全ての人のもの」という答えが返って来た。

 人工妊娠中絶、不妊治療、代理母、遺伝子診断といった生殖補助医療から、脳死、臓器移植、安楽死・尊厳死、終末期医療、そして、新たな希望となる再生医療と、ヒトの誕生から死にいたるまで、医療の問題に限っても、誰もが関わる可能性のある問題ばかりである。いざ、医療を受ける患者や、その関係者となった時、心の準備は出来ているだろうか?

鈴木研究員は、「倫理」という言葉が、人によってイメージが異なり、縛りつけるような印象を与えるかもしれないと感じ、時と場合によっては、言い換えながら、生命倫理学が扱うテーマそのものを伝えるようにしていると言う。

鈴木美香 研究員(iPS細胞研究所)

 「生命倫理学には、医療技術の発達によって新たに生まれた問題に対処することが求められていますので、医療を受ける可能性を持つ全ての方々に関心を持っていただくことが必要となります。確かに、死のイメージが先に立ちますし、言葉の響きからも堅苦しく、ネガティブに捉えられることが多いようですが、人が活き活きと命を全うして、平穏に終わりを迎えるためのポジティブな学問と捉えてもらいたいですね」と、佐藤准教授。「生命倫理は、様々な価値観や希望を持つ人々が肩を寄せ合って生きる共同体における理法のように捉えて欲しいですね」とも。研究者や一部の有識者だけが検討するものでなく、全ての人に開かれた学問であるべきと、一般の人にも気軽に手にとってもらえるような冊子『幹細胞研究ってなんだ』の作成など、アウトリーチ活動も重視している。

冊子「幹細胞研究ってなんだ」の表紙 イラスト:田中麻衣子

 倫理学を専門とする児玉准教授は、何が正しいのか分からない領域、「倫理の空白」を埋めるために生命倫理学は存在し、「まだ、誰も分かっていないわけですから、みんなで考える必要がありますよね」と、大学に限らず、身近な問題として学校教育の場で扱われるべきだと、その広がりを求めている。「そのためには、教師が教える立場としてではなく、様々な意見を議論する場を提供して、自ら参加するといった姿勢が必要になりますね」

 学問領域としてのみ存在するのではなく、「どんな社会を作っていきたいか」を問い実践する学問として身近な存在であること。社会的合意形成、パブリック・ポリシーを形成するための土壌作りを行うことが、生命倫理学が果たすべき一番大きな役割かもしれない。

 さらに、「生命倫理学が発展した世の中では、医療従事者や研究者はどのような役割を果たしているか?」という質問を投げかけてみると、佐藤准教授は「臨床、研究の閉塞感が打破されて、みなさんのQOL*が向上していると良いですね」と切り出し、「そのためには、最善の治療を提供したり、革新的な技術を生むプロフェッショナルとして、自主規制をしながら前に進むといった意識が、今よりも高まっている必要がありますね」と続け、鈴木研究員は「研究者の行う研究が、社会からも意義のあるものとして認められ、支持され信頼されるという状態になっているといいですね」と、当たり前とも取れるコメントを重ねた。

 佐藤准教授と、鈴木研究員のふたりの答えが示すのは「必ずしもそうではない」という現状だ。「これまで、医療や研究の現場は、自らが主体となって、あるべきモデルを示すということを怠っていたかもしれない」と、佐藤准教授は「自戒の意を込めて」語ってくれた。行政や有識者によって組織された機関がガイドラインを作成して、それを医療者や研究者が守るという方式のみでは、現場での「倫理」となりにくいことが指摘されている。

 「生命倫理学は、これからも新しい問題に対応することを迫られると思います。あらゆる事態に後追いで対処することがないように備えるためにも、持続的に運営されるシンクタンク機能の存在と、継続的に最適な人材を輩出するための教育プログラムが欠かせないのです」と、児玉准教授は、今日の問題解決だけでなく、次世代の発展を意識した研究拠点を作り、将来的にはアジアにおけるハブ的役割を果たしていくというビジョンを示す。

 現在のプロジェクトメンバーは、哲学や法学の研究者や医学系の研究者が多いが、今後は生命倫理の社会的受容に関する研究者(社会学)、医療に関わる事象を経済学的に分析する研究者(経済学)、さらに多様な学習成果の評価手法に関する研究者(教育学)、医工連携を推進する研究者(工学者)との連携も見据えている。プロジェクト今後の広がりと共に、国内における生命倫理学への意識の高まり、「あるべき姿」の実現に期待したい。

QOL:Quality of Life。一般には生活の質、といわれる。特に医療においては、治療中~治療後を通じ、「患者が充実感・満足感を持って社会生活を送ることができているか」を計る基準として用いられる考え方である。

児玉 聡(こだま さとし)
文学研究科倫理学研究室 准教授
 →応用哲学・倫理学教育研究センターのサイト

佐藤 恵子(さとう けいこ)
医学部附属病院臨床研究総合センターEBM推進部 准教授

鈴木 美香(すずき みか)
iPS細胞研究所上廣倫理研究部門臨床研究専門職 特定研究員
 →個人紹介サイト 

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