自然免疫システムと遠隔転移の関係を究明し、人々が安心してがん治療に向き合える未来へ「がんの遠隔転移は予防できるのか?」
医学部附属病院 放射線部 助教
中島 良太
霊長類学・ワイルドライフサイエンス・リーディング大学院
高等研究院 松沢哲郎 特別教授
文部科学省による博士課程教育リーディングプログラムの支援を受けた「京都大学霊長類学・ワイルドライフサイエンス・リーディング大学院(PWS)」は、フィールドワークを主体とした実践的なカリキュラムを通じて、これまで京都大学が力を注いできた大学院教育に「野生生物保全」と「動物福祉」と「アウトリーチ」の3つの視点を加え、学術分野のみならず社会貢献にも直結したグローバルな人材を育成するためのプログラムだ。PWSを構想したのは、現京都大学高等研究院の松沢哲郎特別教授。PWSを通じた人材育成について、プログラムコーディネーターの松沢教授に話を聞いた。
真理を追究する研究者の育成は、大学院の大切な使命だ。だが、世界規模で複雑な問題が生じ、現代社会は混迷を極めている。その解決策を提案するためには、研究者レベルの専門知識を持って、かつリーダーシップを発揮できる人材の養成が、大学院教育に期待されている。京都大学大学院ではこれまで、学術研究方面において世界で通用する人材を数多く輩出してきた。しかし、研究者以外の道についても示すようなカリキュラムは、意識的に組まれてはいなかった。そこで、研究者としての将来を強く推奨すると同時に、学術以外の進路についても考える人材を育てる、フィールドワークを基礎とした教育課程が求められた。例えば、絶滅の危機に瀕する野生動物を保護する国際機関や行政機関の職員、野生動物研究を教育に結びつける博物館や動物園や水族館等の博士学芸員、さらには生涯をかけた研究を通じて日本と外国との架け橋になれるような人材である。こうしたワイルドで優秀なグローバル人材を育てるためのプログラムとして、霊長類学・ワイルドライフサイエンス・リーディング大学院(PWS)が平成25年10月1日に発足した。
文部科学省が掲げる「博士課程教育リーディングプログラム」は、「優秀な学生を俯瞰力と独創力を備え広く産学官にわたりグローバルに活躍するリーダーへと導くため、国内外の第一級の教員・学生を結集し、産・学・官の参画を得つつ、専門分野の枠を超えて博士課程前期・後期一貫した世界に通用する質の保証された学位プログラムを構築・展開する大学院教育の抜本的改革を支援し、最高学府に相応しい大学院の形成を推進する事業」だ。平成23年度から採択が始まり、これまでに全国30大学で計62プログラムが進行している。
これらプログラムの中でPWSが他と大きく違う点が3つある。一つ目は、フィールドワークの実習・実践をカリキュラムの主軸に置いて必修にしていることだ。学生には、「書を捨てて野山に出よう」と呼び掛けている。二つ目は、1学年あたり約5人という少人数制。学生とメンター教員の比率は約1:2となっている。最後に、外国人留学生を多く擁した国際性だ。平成28年からの新履修生を含めた5学年の計29人のうち外国人留学生は10人。履修生は世界遺産の屋久島、天然記念物の野生ニホンザルが生息する幸島、京都大学の笹ヶ峰ヒュッテといった場所でフィールドワークの基礎やサバイバル技術を身につける。その後、「いつでも、どこでも、なんでも」というスローガンによる「自由の精神」で、自ら進んで国内外の研修に向かう。全経費はリーディング大学院が負担するため、フィールドワークに専念できる。また、プログラム履修中には海外での野外研究に必要な複数の言語習得も求められる。世界共通語の英語は当然としてフランス語などの国連公用語、さらには野外研究を進めて進める上で必須な現地語の学習も奨励される。
「自由の精神」でフィールドワークに集中できるPWSは、履修希望者が多い。選考は2段階で、まずは京都大学大学院理学研究科生物科学専攻の大学院生になる必要がある。例外的に他の専攻も受け付けるが、京都大学の大学院生であることは必須だ。次の履修生選抜試験では、(1)プログラム履修の志望動機の作文、(2)英語によるポスター発表、(3)英語を母国語とする外国人教員による英語面接での語学力判定、(4)教員10人前後との面接による口頭試問、が評価対象となる。通常の大学院カリキュラムに加えたPWSプログラムの履修で、フィールドワークの基礎をもった研究者の卵を育てようとしている。
実習・実践を必修とし、少人数制を貫いたのは、松沢自身の実体験に基づいたものだ。松沢は、少人数制の有効性を京大のユニークな学部教育である「ポケゼミ(1回生のみを対象にした少人数制セミナー)」で経験した。フィールドワークと少人数教育、そして早くから海外に目を向けることが、これからの教育現場で効果的かつ必要なことだと判断した。さらに、フィールドワークこそ基本との考えを支えるのが、京大山岳部で過ごした時間だった。
今でこそ松沢は、天才チンパンジー「アイ」の研究で広く知られ、霊長類学者として第一線の研究を続けているが、京都大学入学時は文学部の文系学生だった。しかも、初めから京都大学を目指していたわけではない。東京出身で3人兄弟の末っ子だった松沢は当初、学費が安い最寄りの大学に行くつもりだった。ところが入試直前、受けようとしていた東京大学が大学紛争の余波で入試を中止したため、「しかたなく」京都大学に進路を振り替えた。
「京大にきたのは、本当に偶然。手っ取り早く親孝行しようと思って、学費が安くて一番近い大学に行こうとしていたら、受験がありませんと。突然のことに『えっ』と思って、しかたなく京都大学にいきました」
この後、松沢の人生を変える偶然が続く。
「大学に入ったものの、大学紛争で授業がないんですよ。何も授業がないから、じゃあクラブ活動でもしようか、と思って入ったのが山岳部。京大の山岳部はとても有名で、京大山岳部に入るために京大を受験する学生がいるくらい。でも、僕はそうじゃなくって、高校の時に山岳部だったので、その延長で入ってしまった」
京大山岳部は、研究者としても登山家としても著名な人物を送り出している。日本の霊長類研究の創始者ともいえる今西錦司、第一次南極観測隊の越冬隊長を務めた西堀栄三郎、フランス文学・文化研究者の桑原武夫、文化人類学の梅棹忠夫。いずれも京大山岳部出身の研究者だが、松沢は誰も知らない上に、特に興味もなかったという。
しかし、山岳部に入った後の松沢は、卒業するまでの5年間のうち、ほぼ3分の1を山で過ごすことになる。ヒマラヤに行くため留年した1年を含め、年間平均で山にいる日が120日。山登りのためのトレーニングや準備に120日。残る120日は授業にでるという学生生活を送った。
たまたま京大に進学し、山岳部へ偶然入ったことによる経験が、その後の人生のいしずえとなる。
松沢の著書や講演に頻繁に登場する三つのキーワードがある。「Pioneer Work」と「All Round and Complete」、そして「Step by Step」だ。
山を登る者にはそれぞれ、各自の目的や目標がある。その中でも、前人未踏の山に登る初登頂の精神「Pioneer Work」が大きな位置を占めるだろう。「初登頂の精神」だ。世界中の人々が誰も歩いたことのない道を選び山頂に向かう。松沢も、自分で選んで決めた山を目指して研究を続けてきた。
Pioneer Workを為し遂げるために必要なのは、何でも完全にこなせる「All Round and Complete」である。すべてのことが完全でなければ、山では生き残れない。しかし、現実の世界に、完璧な人間などという者は存在しない。だからこそ、「Step by Step」、つまり一歩ずつ、その完全の高みを目指す。たとえ速度は遅くとも一歩ずつ前に進み続ければ、必ずゴールにたどり着く。歩みを止めさえしなければ良い。一歩、また一歩、歩き続ける。逆に、歩みを止めた時点で、それは終わり(=死)を意味する。「歩いて着かない道はない」。歩き続ければいい。
歩みを止めれば終わりを迎える。ある意味、究極のフィールドワークを山岳部で経験した松沢は、若い世代にフィールドワークを基に学問をしてもらいたいと考え、山岳部での経験を追体験できるような、そんな場所をPWSの中につくり上げたのだ。
今の若い世代は本人が自ら望まない限り、究極のフィールドワークを体験する機会などほとんどないだろう。それに対応するように、研究の最前線でフィールドワークができる若者が少なくなっている。これは、約30年にわたって毎年、アフリカでフィールド研究を続ける松沢が実感していることだ。この現状を憂える松沢は、PWSが強調する野外での実践体験があらゆる研究の基礎になると強調する。
「PWSを始めようと考えたのは、若い人々にフィールドワークを基礎にした学問をしてもらいたいと考えたから。フィールドワークというのは、『現場体験』。自分の足で歩いて、自分の目で見て、自分の頭で考えて、そして自分でする学問。そういったものが大切だと学んだのが、山岳部時代だった」
ただ、フィールドワークを経験したからといって、必ずしもフィールドワーカーになる必要はない、とも指摘する。どのような学問でも、フィールドワークができるという技術や知識をもって、デスクワークに臨むことが大切だという。そしてこれらの技術や知識を改めて経験し、実践する場がPWSである。
「学部はどちらですか」と大学の所属学部をきかれて、普通に「山岳部です」と答えていた松沢にとって、山ではない「下界」にいる時間はとても貴重で、ひとつひとつの授業も大切に、そして真面目に受けた。40年たった今でも覚えている授業もあると学部時代の授業を懐かしく思い出す松沢だが、教える側になってからは主に大学院生を指導する立場にいたため、学部生向けの講義機会は多くなかった。そこで、京大が1998年に始めた少人数セミナー(ポケット・ゼミ、通称ポケゼミ)の指導教官の募集に手を挙げる。
「ポケゼミでは、先生一人が選抜した学生5人を指導します。僕の場合は、朝から晩までずっと一緒にすごして、研究者の生活を目の当たりにしてもらう。学生の目で、チンパンジー研究の現場を体験すると同時に、研究を生業としている研究者そのものを観察してもらう。このことで、研究というものがどういったもので、また研究者になるにはどうしたらいいか、現場で学んでもらいます」
この「5人」という数が、顔と名前をすぐに覚えて、面と向かって話ができるちょうどよい数字だという。ポケゼミでの経験から、松沢はPWSでも1学年の数を5人程度に設定した。1対多の講義ではなく、顔が見える「face to face」の指導に重点を置いたのだ。毎年5人程度なら、指導する側もすぐに学生の名前を覚えた上に、各人の状況も把握できる。PWSでは、指導教員の全員が履修生の全員を知っていて、研究指導認定に関わっている。おそらく、ここまで徹底した少人数制を敷いているリーディング大学院プログラムは他にはないだろう。
フィールドワークを主体的に経験できる少人数制のプログラムで、松沢が期待するのはどんなことなのか。
松沢は元々、哲学を学びたいと考えて文学部に入った。その後、いくつかの偶然が重なって霊長類研究所に職を得て、チンパンジーのアイと出会ったことで、霊長類学者の道を歩むことになったが、「人間とは何か」という哲学的な根源的問いかけが、研究の根底に流れ続けている。だからこそ、チンパンジーを比較研究の対象として人間の心の進化を探る「比較認知科学」という学問を樹立し、人間の存在について考え続けてきたと言える。そして、比較認知科学という学問を通じて「人間の存在」がどういったものなのかが分かった次に考えることは「人間はどう生きるべきなのか」だと、松沢はいう。
「大学での学問とは、真理を探究し、真実を求めること。だからといって、学問のみが人生ではない。世の中で、自分に何ができるのか、どんな役割が求められるのか。学問を通じて理解した世界で、どう振る舞うべきなのか。そういったことをじっくりと考え、将来に結びつけられるのが、PWSの対象となる大学生から大学院生の時期なのです」
大学生から大学院生の時期は、保護者の庇護のもとから離れて一人前の人間となり、次の世代に責任をもつ人物になることが求められる。人間形成に大切なその時期にPWSで、霊長類を始めとする野生動物を、フィールドワークを通じて研究することで、地球の歴史の中で人間という生物がどのように進化してきたのか、我が身を削って次世代を養育するほ乳類がどうやって地球上に適応拡散していったのか、考えることができる。そうした研究や実体験を通じて培った知見があり、世界各地と結ぶネットワークができる。履修生の将来を、研究者とするだけではなく、人類が世界規模で取り組むべき課題に立ち向かう人材へと後押しするものになるのだ。
松沢 哲郎(まつざわ てつろう)
高等研究院 特別教授 Dr. Tetsuro Matsuzawa
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