Behind Kyoto University's Research
ドキュメンタリー
Vol.11

始動!アフリカ・ユニット

アフリカ学生研究拠点推進ユニット

京都大学の研究者が、半世紀以上にわたって様々な関係を紡いできたアフリカ大陸。これまでのつながりは、研究者個人や研究プロジェクト単位が主だった。そこで、これまでにアフリカ各地に置かれた「点」をつなぎ、国際的なネットワークとして機能させるべく京都大学が一丸となった「アフリカ学際研究拠点推進ユニット(通称:アフリカ・ユニット)」が、2016年に発足した。アフリカ関連の研究と教育の国際的なハブとして、分野を越えた活動を目指すユニットの設立経緯や期待する姿などを、ユニット長の重田眞義教授ら関係者に聞いた。

京都大学とアフリカ

 京都大学でアフリカをフィールドとして研究しているのは、アジア・アフリカ地域研究研究科(ASAFAS)やアフリカ地域研究資料センターを筆頭に、霊長類研究所、野生動物研究センター、理学研究科自然人類学教室、理学研究科人類進化論教室などがある。アフリカに研究対象を持つ研究者を見渡せば、文学研究科の松田素二教授や人間・環境学研究科の石川尚人教授、防災研究所の石川裕彦教授、地球環境学堂の舟川晋也教授など、文系や理系、分野を問わず多くの名前が挙がる。

 しかし、アフリカ学際研究拠点推進ユニット(通称:アフリカ・ユニット)の重田眞義教授によると、これら点在する研究者や研究プロジェクトにはこれまで、横のつながりが公式な組織としてなかったという。様々な分野の研究者がアフリカ各地で別々に研究していたため、連携を取って大型研究資金の獲得を目指す機会を逃してきた可能性がある。そこで、京都大学におけるアフリカに関する多種多様な活動を横断的につなぐ、アフリカ研究の「ハブ」としての拠点作りの足がかりとして、アフリカ・ユニットが立ち上がった。

 アフリカ・ユニットまでの道のりを見ると、京都大学によるアフリカ研究への第一歩は、日本霊長類研究の創始者・今西錦司が代表となったアフリカ類人猿学術調査(1961〜67年)だ。アフリカ・ユニットの重田眞義教授が、「京都大学のアフリカ研究は霊長類研究から始まったのは間違いない」というように、この学術調査に同行した京都大学の霊長類研究者・伊谷純一郎が中心となって、1986年に京都大学にアフリカ地域研究センターが設立された。霊長類だけではない動植物の生態や、アフリカの人々の暮らしも含めた社会と文化を切り口として、アフリカの生態・社会・文化をより深く理解することを目的としたセンターで、幅広い学際的な地域研究が進んだ。

今西錦司(中央)と伊谷純一郎(右)

 1980年代から世界各国で「地域研究(Area Studies)」が始まったが、アフリカ地域研究センターのように理系の研究者が入っているところは世界でも珍しい。重田教授は、「文理融合という言葉が生まれる前から、東南アジアで進められてきた地域研究では農学に代表される理系分野の研究が深く関わってきた。このような京都大学の地域研究の特色は、アフリカ研究においても共通されている。」と話す。

 同センターは、日本初のアフリカ地域研究を行う場所として幅広い研究者が集まったが、人材育成の視点から「大学院」の必要性が高まり、東南アジア研究センター(現東南アジア地域研究研究所)と協力して1998年にアジア・アフリカ地域研究研究科(ASAFAS)を設立する。それまで、アフリカ地域研究センターが協力教員としておこなってきた大学院教育はASAFASに移り、同センターは1997年からアフリカ地域研究資料センターとして今に至っている。

ユニットと拠点

 京都大学には現在、分野を越えた研究プロジェクトを推進するユニットがいくつかある。いずれも、学内で横断的に研究・教育活動を効果的に実施するために設立された。しかし、アフリカ関連の教育や研究に目を向けると、携わる専任教員が60人以上も在籍しているのに、彼らをつなぐ組織がなかった。そこで、アジア・アフリカ地域研究研究科など学内の10部局に所属する教員がユニットを結成し、京都大学とアフリカ社会をつなぐハブ組織として活動することになった。

 ユニットの大きな目的は、アフリカ関連の研究や教育、国際貢献活動に携わる組織と研究者を有機的につないで、これまで京都大学のあちこちで蓄積されてきた情報を共有し、各活動が効果的にできるよう、全学的なサービスを提供すること。さらには、京都大学から巣立ったアフリカ関連の研究者たちを、国籍や活動地域にこだわらずに同窓会的な形で結びつけ、アフリカ地域における京都大学の窓口になることだ。

 2016年5月現在、京都大学に在籍するアフリカ出身の留学生は、53カ国から74人に上る。これまでにも、京都大学で学問を修めてアフリカに戻った留学生たちが数多くいる。また、アフリカに赴いて仕事をする卒業生も数多い。しかし、このようなアフリカで活躍する京大関係者を結びつける仕組みはこれまでのところ存在しなかった。そのため、「京大」と「アフリカ」という共通のキーワードを持ちながら接点のない関係者が数多くいる。ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)の普及で、以前よりは交流が簡便になったとはいえ、関係者を網羅するのはまだまだ難しい。そこで、アフリカ・ユニットと同時に新たに京都大学アフリカ同窓会(KUAAA)が立ち上がった。京都大学と過去・現在・未来で関わりを持つアフリカ関係者が、世代や国境、分野を越えた交流を始められる準備が整ったのだ。

アフリカ・ユニット・キックオフ・セレモニーには、学内外から多くの関係者が集まった

 しかし、アフリカ・ユニットと同窓会という「人のつながり」を促進する仕組みはできたものの、物理的な拠点は今後の課題となっている。京都大学は現在、欧州とアジアに拠点を置き、国際交流を始めとする様々な分野で、それぞれの地域の窓口になって成果を上げている。これまでの京都大学とアフリカ大陸との関係を見れば、「物理的な拠点」がアフリカ大陸にできれば、ユニットと同窓会の機能もさらに活性化され、共同研究や国際教育、産学連携、国際貢献などの分野でこれまで以上にアフリカとの交流が活発になるだろう。重田教授は、「ユニットの設立で、京大の文理融合的な地域研究の伝統を核にして、アフリカとのアカデミックな交流をさらに活発化させたい」と意気込む。

京都大学アフリカ学際研究拠点推進ユニット長の重田眞義教授

フィールドがアフリカでなくとも

 アフリカ・ユニットにはアフリカの自然や人々の暮らしを研究の対象にする研究者が多いが、アフリカだけを対象にしているわけではない専門分野の関係者もいる。例えば、工学研究科の木村亮教授は、「アフリカ」だけを研究対象や研究フィールドにしていない、ユニットの中でも異色の存在だ。専門分野は土木工学。地盤工学や基礎工学といった建物や構造物の基礎研究が専門で、アフリカの都市で地下鉄を作ろうといった計画が持ち上がれば、専門家としての出番がくる。しかし、今のアフリカではまだ、木村教授の専門分野が渇望される段階には至っていない。にも関わらず、木村教授のアフリカへの渡航回数はすでに80回近くに達している。木村教授とアフリカとの出会いは、1980年代にさかのぼる。工学部の学部生時代から世界各国を自転車で走っていた木村教授は、修士論文提出後の1984年1月、自転車によるサハラ砂漠縦断に旅立つ。この旅で初めてアフリカ大陸に足を踏み入れた木村教授は当時、それほどアフリカに興味をもたなかった。しかしその後、1993年から20年以上にわたって、アフリカと関わることになる。

工学研究科の木村教授。左はサハラ砂漠縦断時の様子

 サハラ砂漠縦断の旅を終えて工学部の助手となった木村は、京都大学工学部の中川博次教授からアフリカ東部のケニア行きを持ちかけられた。中川教授は、日本政府が1970年代から支援しているケニアのジョモ・ケニヤッタ農工大学の設立に関わる人物だ。ちょうど博士論文を書き終えた木村助手に任されたのは、ジョモ・ケニヤッタ農工大学での講師役。1999年まで毎年2カ月ほどケニアに滞在し、同大学で土木工学科目の担当講師として、カリキュラムの改善などに奔走した。

 ケニアの主産業は農業であることからも、日本政府はジョモ・ケニヤッタ農工大の設立を支援していた。しかし、土木工学が専門の木村にとっては、いくら農産物の生産量が向上したとしても、道路が整備されていない現地で、生産物の輸送もままならない状態にあることが歯がゆかった。また、農業・工業製品の輸送以前の問題として、道がなければ学校にも通えず、病院にも行けず、通常の生活すら難しいことが見えてくる。生活の質向上こそが貧困問題の解決に結びつくと考える木村は、ジョモ・ケニヤッタ農工大での経験と中川教授からのアドバイスをもとに、現地の人々が自分たちの手で簡単に道路を整備できる手法を、日本の「土囊(どのう)」を活用して編み出した。これは、特定非営利活動(NPO)法人道普請人(みちぶしんびと)の活動につながり、現在では世界各地の発展途上国で活用されている。

土囊を使って道を整備する地域の人々
ぬかるんだ道が土囊を使った技術で整備される

 木村教授は、「京都大学には自分の研究テーマを携えてアフリカのフィールドに向かう研究者が多いのですが、私の専門分野はアフリカではありません。ただ、住民と一緒に簡便なインフラを整備することが研究テーマのひとつでもあるので、その点ではNPO活動なども研究の一環とも言えるでしょうか。工学部の研究者や学生が、これからアフリカでやるべきことは数多くあります。アフリカ・ユニットの始動で、専門分野を越えた交流が始まり、そこから新しい発想が生まれる可能性があるでしょう。私も、農学や文化人類学の研究者と交流を持ちたいですし。知の探検大学として、京都大学の『知のフィールド』をアフリカに展開していきたいですね」と、ユニットの将来に期待を寄せている。

京都大学に集まるアフリカ人研究者

 京都大学からアフリカへ向かう研究者だけではなく、アフリカから京都大学にやってくる研究者や留学生にとっても、アフリカ・ユニットは重要な存在となる。医学研究科の木原正博教授は、疫学を社会科学的な視点と方法論でアプローチする「社会疫学」を扱い、途上国などの国外における問題解決につなげるため世界各国から研究生を受け入れており、アフリカ出身者も多い。現在は、コンゴ民主共和国(旧ザイール)とスワジランドからの2人が、エイズウイルス(HIV)に関する社会疫学で研究に取り組んでいる。

パトゥ・ムスマリ特任助教(左)とベクムサ・ルクヘレさん(右)

 コンゴ民主共和国から2009年に京都大学にきたパトゥ・ムスマリ特任助教にとって、日本は当初、研究する国ではなかった。「コンゴ民主共和国の人々は、研究場所としてまず欧州を思い浮かべます。日本のことを知ったのは、大使館を通じて得た奨学金プログラムの情報からです。それまで『KYOTO』という言葉は、(地球温暖化防止京都会議で採択された)京都議定書でしか見たことがありませんでした」という。ムスマリ特任助教は木原教授の手厚いサポートの元で学位を取得し、現在も社会疫学分野で数多くの研究を続けているが、京都大学では特に、アフリカ出身者同士の交流はなく、「コンゴから来日している人々のネットワークを頼りにしていた」と回想する。

 木原研で研究するもう一人のアフリカ出身者、ベクムサ・ルクヘレ(通称:ベッキー)さんは、京都大学医学研究科で1年間の研究生を経て修士課程を修了し、博士課程では京都大学グローバル生存学大学院連携プログラムに参加して学位を取得した。スワジランドでは看護学を修め、国家レベルでの公衆衛生分野で実務歴もあるベッキーさんは、2010年に国際協力機構(JICA)のプログラムで来日して各大学からの研究内容紹介を受け、京都大学で行われているソーシャル・マーケティングを活用した公衆衛生研究に興味を持ったという。「来日前には、米コロンビア大学で研究するつもりでした。フルブライトの奨学金も得ていましたが、京都大学での公衆衛生に関する研究手法が斬新で、将来的な見通しを考えると、こちらのほうが魅力的でした」と、京都大学に進学した経緯を語った。

 しかし、修士課程では日本語開講の科目も多く、言語面で非常に苦労したという。また、JICAのプログラムで大阪に滞在した際には、周囲の日本人とは普通に英語で交流できたうえ、各大学とも英語が堪能な人物が発表していたので、「さすが先進国。みんなが英語を話せるんだ」と思ったため、京都大学でこれほど英語が通じないとは想像もしていなかったという。

 さらに、アフリカ出身者同士で交流を持とうにも全く大学内ではアフリカ関係のネットワークがなかった。「スワジランドから京都大学にきたのは、私が全くの初めてでしょう。日本にもほとんど、スワジランド出身者はいなかったようです。ABEイニシアティブ(日本政府によるアフリカの若者のための産業人材育成イニシアティブ)が始まってからは、増えましたが」というように、同郷者との交流もままならない状況だった。2人からの話で、これからの留学生にとってアフリカ・ユニットが果たす役割が、非常に大きいことが分かる。

 現在、京都精華大学で人文学部長を務めるウスビ・サコ教授はアフリカ西部マリ出身で、京都大学大学院工学研究科で学位を取得した。アフリカ・ユニットのキックオフ・セレモニーでは、アフリカ出身の京都大学卒業生を代表して来賓として挨拶し、「アフリカからの留学生が出身国や所属部局を越えて横のつながりを築くことは難しかった。横断的なユニットで、日本とアフリカだけでなく、日本で研究するアフリカ出身者同士の交流が深まることは、非常に喜ばしい」と、ユニットの活動に注目している。

ウスビ・サコ精華大学人文学部長

 アフリカ・ユニットは、設立後まもなく「第1回アフリカ女子留学生ミーティング」と「アフリカ霊長類学コンソーシアム・国際シンポジウム」を開催するなど、順調なスタートを切った。ユニットの設立で、京都大学で始まったアフリカ研究が大きく飛躍するチャンスが生まれた。これから、どんな研究者が生まれて、どういった研究が育ち、どこで成果を見せるのか。目が離せない。

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