Behind Kyoto University's Research
ドキュメンタリー
Vol.15

社会に開かれた生命倫理学をめざして。越境する知が医療現場を、そして日本を変える日

文学研究科 児玉聡 准教授

医療の現場や最先端の生命科学が抱える倫理的問題を扱う生命倫理学。文学研究科准教授の児玉聡先生によると、その本質は人文、医療、政治といった分野を横断する学際性にあるという。生命倫理学という知のネットワークは、世の中をどのように変えていくのだろうか? 2014年度に「SPIRITS:『知の越境』融合チーム研究プログラム(以下、SPIRITS)」に採択された、「京都大学を拠点とする領域横断型の生命倫理の研究・教育体制の構築」のプロジェクトをはじめ、児玉先生が推し進める生命倫理学の学際研究についてお聞きした。

医療や生命に関わる諸問題を多視点的に考える

さっそくですが、生命倫理学とはどんな学問なのでしょうか?

「生命倫理学が扱う主な対象は、医療現場で日々起こっている問題と、新しい技術に関する問題に大きく分けられます。

医療現場には倫理的なジレンマが数多くあります。臓器移植の問題や、脳死にまつわる死の定義の問題のほか、終末期医療では治療の中止判断を誰が、どのように行うのかという難問が日々突きつけられています。一方、医療現場でまだ実用化されていない先端的な技術も多くの問題を孕んでいます。例えば、ゲノム編集技術を用いて生まれてくる子どもの遺伝子を操作することは許されるでしょうか。こうした問題に、伝統的な哲学・倫理学のみならず法学や社会学などさまざまな視点からアプローチするのが生命倫理学なのです」

文学研究科の児玉聡先生

従来の文学部のイメージに収まらない先端的・実践的な学問ですね。児玉先生が生命倫理学の研究を始められたきっかけは何だったのでしょうか?

「学生時代は思想史的なアプローチから倫理学を研究していたのですが、加藤尚武先生(京都大学名誉教授)の影響で生命倫理に興味を持ちました。転機となったのは、東京大学医学部に就職したことでした。医療倫理を教える講座に助手として配属され、医学や看護学の道に進む学生たちに倫理的問題を教えることになったんです。教壇に立ちながら、自分でも臓器移植やES細胞、iPS細胞といった新技術の問題を研究しました。2012年に京都大学に着任した際も、東京大学での経験を活かして学際的に生命倫理を研究する拠点を作りたいという思いがあり、積極的に研究者同士のネットワークを築いていきました」

分野を越えて研究の輪を広げていらっしゃる児玉先生ですが、生命倫理における学際研究の重要性についてもう少し教えていただけますか?

「生命倫理に関する問題はさまざまな分野にまたがっていて、学際的にアプローチしないと本質が見えてこないんです。文学部では倫理学を基礎とした理論的アプローチを取っていますが、法学部では医療行為や先端技術に対する法規制のあり方を考えます。大学病院のある医学部では目の前の問題として日々頭を悩ませていて、理論や制度が追いついていない状況があります。それぞれの分野を結びつけるのが大きな課題なのです。

科学的ではあるが科学そのものでは解決できない問題をトランスサイエンスと呼びます。生命倫理はその典型です。重要さにもかかわらず、日本の学術界が縦割り的であることもあり、これまでなかなか学際研究が進んできませんでした。現実的にはこうした横断領域には研究費がつきづらいという問題もあります」

そこで2014年からの2年間、学際研究を推進するSPIRITSの枠組を利用してプロジェクトを立ち上げられたのですね。

「はい。文、医、法学部の他には、たとえば農学部でゲノム編集を研究していらっしゃる先生ですとか、各学部に数名は生命倫理に関わりのある研究をされている先生がいらっしゃいます。SPIRITSではそうした研究者のネットワークを活かして、共同研究と教育の基盤を作るための取り組みを行いました」

生命倫理の知見を医療従事者に届ける

そのSPIRITSで取り組まれた内容についてお聞きしたいのですが、生命倫理を実践的に学べるコースを作られたそうですね。

「はい。生命倫理の学際的な教育体制を作ることをめざし、他分野の先生と共同で臨床倫理学入門コース(公開講座)を開講しました。これは主に医療従事者が対象で、2日間の連続講座としてSPIRITSの採択期間が終わった後もほぼ毎年続けています。40名ほどの受講生の8割が医療従事者の方々、残りが大学教員や学生、メディア関係者です。医療現場で起こりうる倫理的問題を提示し、グループごとに討論して解決策を発表してもらうというもので、その問題を考えるために必要な医学、倫理学、法学などのさまざまな基礎知識をレクチャーしながら進めます。このコースを通じて医療従事者の方が倫理的・法的な知見を身につけ、現場での判断に役立てられるようになっていただくことを目標にしています」

臨床倫理学入門コースの講義の様子

医療人を倫理面で育成するという東大時代の経験がここで活きているわけですね。どんなテーマについて議論されるのでしょうか?

「さまざまな問題を扱いますが、典型的なのはインフォームド・コンセントの問題です。患者さんに治療方針を説明して、同意の上で治療を進めることをインフォームド・コンセントと言いますが、ご本人とのお話が難しい場合などではご家族に対して説明して代諾していただくことがあります。こうした事例について討論すると、現場の医療従事者の方にとっての妥当な対処法と、文学部などの学生が考える論理的な意見とが食い違ってくるんです。医療現場の内部で完結しがちな問題に外部からの声が投げかけられることで、医療従事者の方々にとっていい刺激になっているようです」

立場の違う参加者同士では、議論は深まっても答えにたどり着けないということになりそうですが……。

「医療従事者の方々は日々現場で悩み、苦しんでおられます。このコースでそれらの問題に唯一の正解を出すことはできませんが、少なくとも必要な知識と考え方の道筋を提示することはできます。そのためのプロセスとして、グループ内で議論を深めてコンセンサスを形成することを大切にしているんです。いろいろな分野の学生や若手研究者にもどんどん参加していただいて、外部からの鋭い意見を投げかけてほしいですね」

対話によって考え方の道筋を作ってゆくアプローチは、まさに哲学・倫理学の実践ですね。

海外から取り残された日本の生命倫理

「SPIRITSではもうひとつ、海外に目を向けた共同研究の基盤づくりを行いました。入門コースが現在の日本社会の枠組みの中で医療現場の問題を考える取り組みとするならば、こちらは世界の中での日本の生命倫理のあり方を問う取り組みです。

日本の生命倫理は、世界の先進国と比較して随分遅れをとっているのが現状です。終末期医療に関しては国内で議論こそなされており、近年になってガイドラインも作られたものの、いまだに法整備には至っていません。専門家や政策立案者が海外の動向を見ず、議論が国内に閉じてしまっているという危機感を抱いていました」

具体的には、海外と日本でどのような差があるのでしょうか?

「まずは文化や価値観の近いアジア圏の他国との比較がとても大切だと考えています。日本では終末期医療に関する法制度が整っていないので、どの病院にかかるかでどんな最期を迎えるのかが変わってしまうのが現状です。一方、お隣の韓国や台湾では終末期医療でどんな場合に治療を中止できるのかを明示した法整備が進んでいます。

欧米に目を向けると、オランダ、カナダ、アメリカの一部の州などでは終末期の安楽死が合法化されていて、スイスでは海外から渡航してくる人にもこれを認めています。生殖医療に関しては、日本で認められていない卵子の提供がアメリカや台湾では可能になっています。日本の法整備が進まない裏では、臓器移植や安楽死、生殖医療を目的とした海外渡航も行われているんです」

日本社会としてどこに線を引くのか、慎重に議論を重ねなければならないのは当然として、現実は世界の情勢を無視できないところまで進行しているわけですね。

「そうした状況を受けて、SPIRITSのプロジェクトでは、主に関西圏の研究者とオーストラリア、イギリスの研究者で国際ワークショップを行いました。この交流がSPIRITSの採択期間終了後も国際的な研究の発展につながっています。現在もこの時のメンバーを中心に、東アジアの終末期医療にスポットを当てて、韓国、台湾と日本の現状を比較する研究を進めています」

SPIRITS採択期間終了後も続いている国際ワークショップ。こちらは2019年、国立台湾大学にて

議論を深め、社会の意思決定につなげる

生命倫理に関して、これから重要になってくるであろう問題を教えていただけますか?

「ゲノム編集技術はiPS細胞と組み合わさることで今後飛躍的に発展していくでしょう。医療に応用される際にどんな倫理的問題が起こるのか、引き続き研究していきたいです。

現在力を入れているのは、パンデミックの倫理というテーマです。実はこれまでもエボラ出血熱や2009年の新型インフルエンザの流行時に議論が起こってきたのですが、政治が国民に対して強制的に行動を制限することは許されるのか、ワクチンや人工呼吸器はどんな場合に、誰に優先的に使うべきなのかなど、パンデミック下で考えるべき倫理的な問題は山積していて、あと数年間は学際的に議論を深めてゆく必要があるでしょう。このテーマに関しては『パンデミックに取り組む応用哲学・倫理学』というwebサイトを立ち上げて情報を収集・調査・発信しています。

パンデミックの問題には公衆衛生という考え方が関わっています。公衆衛生とは疾病の予防を目的として健康な集団に介入することで、感染症予防の他には、運動を推奨したり喫煙や飲酒を制限したりといったことも含まれます。ここからは生命倫理から発展した個人的な関心事ですが、公衆衛生をはじめとした『予防』全般を倫理問題として考えることもできます。防災や防犯、地球温暖化まで、どこまで強制力をもった予防が望ましいのか。予防を徹底できないのは何故か。最近はそんな問題に関心を持っています」

テーマはどんどん広がっていきますね。お話をお聞きしてみて、オープンに議論を深めて、市民から見える形で実践につなげるという姿勢が一貫していらっしゃるように思いました。最終的にはどんなゴールを考えていらっしゃいますか?

「生命倫理の研究成果は、最終的に政策立案などの意思決定に活かされることで社会に還元できると考えています。

今日お話ししてきたとおり、生命倫理と政治は不可分です。終末期医療では、自治体ごとに医療の状況が違う中で、どの地域で病気にかかるかによってどんな最期を迎えるかにかなり差があるというのが現実です。生殖医療に関しては、不妊で悩んでいる方やLGBTQの方に先端技術の適用をどこまで認めるのかということが問題になっています。こうした問題は、一般の方にとっては当事者にならない限り考えが及ばないことかもしれません。まずは生命倫理でどんな問題を扱っているのかを広く知ってもらい、アカデミックな研究のみならず市民の皆さん、そして政策立案者と議論を深めることが必要だと考えています。

もちろん、これからの生命倫理を担う研究者や市民を育成するために、大学教育も大切にしていきたいですね」

児玉 聡(こだま さとし)

文学研究科 准教授
京都大学文学部卒、同大学院文学研究科博士後期課程単位取得退学。博士(文学、京都大学)。東京大学大学院医学系研究科で医療倫理学の助手・講師を勤めた後、現職。専門は英米近現代倫理学および生命倫理学。

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