Behind Kyoto University's Research
ドキュメンタリー
Vol.22

調和した社会を法学からデザインする。「実証法学の確立に向けた法学方法論の探究」

法学研究科 教授
稲谷 龍彦

くすのき・125

京都大学創立125周年記念事業の一つとして設立された学内ファンド*「くすのき・125」。このファンドは、既存の価値観にとらわれない自由な発想で、次の125年に向けて「調和した地球社会のビジョン」を自ら描き、その実現に向けて独創的な研究に挑戦する次世代の研究者を3年間支援するというものだ。
*「学内ファンド」とは,京都大学がめざす目標に向けて,京都大学が持つ資金を学内の教職員等に提供する制度のことです。

2020年度に採択された法学研究科の稲谷龍彦先生の研究テーマは、「実証法学の確立に向けた法学方法論の探究」。稲谷先生は、科学技術の進歩とともに変化してゆく社会にこそ、新しい人間モデルに基づいた法が必要だと言う。現在の法制度の限界、そして法学の視点から見た調和した地球社会とは? 動画メッセージとインタビューをお届けする。

科学技術と社会が共に成長するための新しい法制度を設計する

まずは、稲谷先生のご研究内容について教えていただけますか?

「私の専門は刑事学とか刑事政策と言われる分野です。取り扱うのは刑事司法制度なのですが、法学だけではなく社会学、経済学、心理学といった分野の成果を取り入れて制度設計を考えるということをやっています。

その中でも最近特に力を入れているテーマが2つあります。一つは企業犯罪です。世界がグローバルにつながることで、巨大化した企業の違法行為が人々の生活に非常に大きな影響を与えるようになってきました。日本企業のみならず、世界中の企業によってなされる違法行為をどう抑止し、また取り締まるのかということを研究しています。

もう一つが、後ほどお話しする私の『くすのき・125』のプロジェクトの内容とも関わるのですが、科学技術と法というテーマです。現在、仮想空間と現実空間を高度に融合させた社会『society 5.0』が政府主導で推進されていますが、そこでは、新しい科学技術が引き起こすさまざまな問題に対処するための、新しい社会の仕組みも必要になります。そこで私は、科学技術とともに社会が健全に成長していくために、どのような法制度やガバナンスシステムが新たに必要になるのかを研究しています。刑事法に引き寄せて考えるならば、制裁制度や報奨制度をうまく設計することで人々の行動に働きかけ、適切なリスクマネジメントやイノベーションを促進するといったことですね」

法学というと堅いイメージがありますが、さまざまな分野の知見を取り入れて新しい社会のための法制度を作るという発想はとてもユニークですね。どんな経緯でそのような発想に至ったのでしょうか?

お話を伺った稲谷龍彦先生

「私は東京大学の文学部を卒業して、弁護士をめざして京都大学のロー・スクールに進学し、初めて本格的に法学に触れました。法学をはじめてみて思ったのが、法律のベースになっている考え方が思っていたよりも古いな、ということでした。

学部時代には認知言語学を中心とする認知科学を学んでいたのですが、そこでは、人間の脳の情報処理のあり方というのは生まれた時からある程度構造化され、決まっていることが前提とされていました。また、人間の情報処理には身体的な感覚も深く関わっていると考えられていました。つまり、脳の構造からくる思考のパターンや、身体を通じて相互作用する周囲の環境の影響を本人の意志に関わらず無意識に受けているというのが当然とされていたのです。しかし、伝統的に法学では、人間は自由意志を持ち、外的な環境から独立した自律的主体として振舞うことを前提としている。これは現在の科学が明らかにしつつある、実際の人間のあり方と乖離しています。さらに言えば、文学や哲学の世界では、テクストに唯一の『正しい』意味が内在していると考えるのではなく、受け手の解釈という創造的な営みによってはじめて意味が与えられるという考え方が常識でしたが、法学における法解釈は、しばしば法律が内在的に持つ唯一の正しい意味を導き出すことを目的としている。これも無理のあることだと感じていました」

法学の考え方はそれまで学んできたことと違ったと。それでも法学の道に進まれたのですね。

「法学をこのままの考え方で続けていくのは難しいぞと最初に感じたのですが、だったら敢えてそこに飛び込んで法学を変えていこうと思ったんです。その中でも、特に人の人生に大きな影響を及ぼす刑事法を変える必要を強く感じました。法学研究科の先生方はそんな私の考えを面白がってくれて、助言をいただきつつのびのびと研究に打ち込むことができました」

どんな人間の判断も、その人を取り巻くシステムとは切り離せない

そこから現在の研究テーマにどうつながっていくのでしょうか。

「ロー・スクールを卒業するときに、後に指導教官になっていただく酒巻匡先生に声をかけていただいて、そのまま法学部の助教の職に就くことになりました。そのとき選んだ研究テーマは、プライバシーを刑事手続の中でどう保護するかというものでした。このテーマが科学技術と法について考えるきっかけになりました。それまでの法規制では、情報を取得する際にどう規制をかけるかという発想が中心だったのですが、テクノロジーが進歩するとむしろ取得した情報をどう扱うか、あるいは分析するかというほうがより深刻な問題になってきます。こうした問題に取り組むうちに、テクノロジーとともに法制度もダイナミックに変わっていく必要があると感じたんです。

もう一つ、法制度を運用する司法システムの問題にも関心を持ちました。日本の伝統的な法学では、法律自体はあまり変化しないことを前提に、裁判官が時代に合わせてなんとか法解釈という形でその時々の問題に対処するという考え方が主流でした。法学者はいわばその作戦を考える役割を担ってきました。しかし私は、こうした司法システムのあり方自体にどうしても無理があると思ったのです。裁判所で帳尻を合わせるやり方ではなく、裁判所、国会、検察や警察という、刑事司法に関わる各機関がそれぞれの領域で対処可能なこと、なすべきことをきちんと整理して、司法システム全体としてのより良いガバナンスのあり方を構築していくべきだと考えるようになりました。

このようにシステムに目が行くようになると、人間の判断というのは独立した個人が下しているというよりも、システムとの相互作用の中で生じるのだということも理解されます。これは司法システムだけでなく、一般的な企業活動でも同じです。現在の日本の法制度では、例えば、企業犯罪が生じた際にも、主として事件当事者となった個人を処罰することに主眼が置かれていますが、不正の原因をシステムとの相互作用という観点から分析し、システム自体の改善を促すような法制度へと変えていく必要があると思います。

2014年から1年間アメリカに留学していたのですが、アメリカでは当時、すでにシステムの改善に焦点を合わせて企業を再設計するという手続が刑事司法の中で定着しており、その考え方に非常に興味を惹かれました。こうしたきっかけもあって、システムと人の関係という観点から、冒頭に挙げた企業犯罪、そして科学技術と法という二つのテーマに中心的に取り組むようになりました」

人と人工物、自然とが調和する社会をめざして

「くすのき・125」では、応募の際に「125年後の調和した地球社会のビジョン」をお聞きしています。稲谷先生の描くビジョンをお聞かせいただけますか?

「人と自然と人工物、この3者が共生・混生する社会をイメージしています。

近代の西洋思想では、人間が一方的に自然や人工物を支配する、あるいは精神が肉体を支配しているというモデルで世界を捉えていました。これは明治以降に日本に輸入された法学の考え方の根底にもあります。ですが、実際には私たちは身体を通じて外部の環境にアクセスしたり、逆に影響を受けたりしながら物事を考えたり行動したりしています。例えば、私たちは、紙に書いたりパソコンを使ったりすることで脳の情報処理能力を格段に上げることができます。この時、私たちは脳の機能を外部に委託しているわけです。逆に言えば、そうしたものがなければ文明や文化は発展できなかったとも言えます。こうした人と人工物との関係性を受け入れることが、調和した社会の足がかりになると考えています。

人と自然と人工物とが、互いに完全に支配しているわけでもなければ、支配されているわけでもなく、相互に影響しあっている。こうした曖昧な関係を捉える思想は欧米だと尖ったものだとみなされますが、日本人の感覚としてはむしろしっくりきますよね。私はそんな考え方を法学にも導入することで、多くの人が幸福に生きられるような状態を作りたいと思っています」

西洋的な思想から脱却する必要を感じられたのは、やはり留学のご経験からでしょうか。

「そうですね。アメリカの前はフランスにも1年間留学していたのですが、フランスでは、社会契約によって平等で自由な社会をゼロから作ってきた国だという信念を多くの人が持っているように思いました。自由気ままな人が多いように見えますが、互いの権利を尊重し、調整が必要な際には徹底した対話を重視する文化があるように感じました。一方、日本人は規律正しいとよく言われますが、個人がいたずらにルールを内面化しすぎて窮屈になっている面もあります。どちらが良いというわけではなく、そもそも主体や個人についての考え方のベースが違うんだということは留学中に身に染みて感じました。

また、歴史的な経緯もあって、日本の法学者は、欧米の『輸入元』となっている国に留学することが伝統になっていますが、実際に行ってみると現地の法学者に『何をしに来たんだ』と言われるわけです。『この国の刑事法が本当に上手くいっていると思うのか?』と。確かにアメリカの治安を考えたら、刑事司法が日本よりも上手くいっているとは言い難いんですよね。それでは日本の法学は結局どこをめざしていけば良いのか……そんなモヤモヤから、西洋近代的ではない法のあり方を考えるようになりました」

家族とともに留学先のフランスへ。この日は革命記念日だった

予測不能なものと折り合いをつける柔軟さこそが必要

調和した社会の実現に向けて、どのように取り組んでいかれるのでしょうか。研究の最終的な目標などはありますか?

「私の目標は、法が前提としている人間のモデルを変えることですね。自律的な意思決定ができる抽象的な主体として人間を捉えるこれまでのモデルによって、実際に色々な齟齬が出てきてしまっています。

例えば、現在EUで検討されているAIの規則案というものがあるのですが、その中には、リスクが高いAIに対して、誤作動を起こさないように人間が常時監視することを定めた項目があります。人間がAIを支配するのであって、逆ではないんだという考え方ですね。しかし、人間だって完璧ではありません。高度に自律的な機械を監視する際に、人間の注意が低下したり、判断力が鈍ってしまったりする可能性が高いことは、認知心理学などによって明らかになっています。そうすると、人間が下手にシステムに介入すること自体が逆に危険を招いてしまうことも十分起こりえます。

身の回りのあらゆるものが高度に自動化された環境、あるいは異常気象などの予測不可能な環境と付き合ってゆくためには、人間が全てをコントロールできるというモデルを捨てて、よくわからないものとうまくやっていくことを前提として、一方的な支配ではなく調和をめざすモデルに切り替えていく必要があると感じています」

わからないものとうまくやっていく……どういうことでしょうか。

「例えば、先ほどのAIの話ですが、誤作動が起こる確率と起こった際のリスクが十分に低いのであれば、人間は下手に介入せずAIに任せてしまったほうがいい。その上で、予測できないことが起こったときのために、柔軟かつ迅速に問題に対処できるようなシステムを作っておくことが大切です。具体的には、何かが起こったときに責任者一人を処罰して済ませるのではなく、情報共有して、関係者みんなで議論しながら解決策を探っていくということにインセンティブを与えるという方法がありえます。情報共有やAIを利用した製品・サービスの改善に協力しない関係者だけを処罰する、というような法制度ですね。

さらに言えば、上からルールを押し付けるだけではシステムは停滞します。イノベーションには、既存のルールからの逸脱も必要になりますから、現場と規制当局がともにコミュニケーションをとりながら、古いルールをみんなで刷新していくということも不可欠です。そんなふうに、ダイナミックに変化する社会を支えるインフラとして法制度を整備していくことをイメージしています」

誰かの失敗を責めるのではなく、失敗から学んで新しいやり方を模索できる社会。まさに今必要とされている考え方だと思います。

実証によって新たな法学の方法論を模索する

「くすのき・125」に採択された研究テーマは「実証法学の確立に向けた法学方法論の探究」ということですが、どんな内容になるのでしょうか?

「具体的には、定性的・定量的な研究をそれぞれ積み重ねていくことで、今申し上げたような法学モデルを検証するということを考えています。例えば人間が人工物からどんな影響を受けるのかということは、脳活動の測定や心理実験などを通じてある程度数値として表すことができます。これが定量的な研究で、現在すでに取り組んでいるものもあります。一方で、そもそもどうして人間と人工物の関係に着目したかというと、哲学や文化人類学などの分野で、既存の人間モデルが批判的に論じられてきたという背景があるからです。こうした知見をどんどん取り込んで、新たな理論の手掛かりを見出していくのが定性的な研究になります。つまり、定量的な研究の成果を定性的な研究の視点で批判的に検証するというサイクルを回していくことで、新たな法のモデルを模索・構築しようというわけです」

稲谷先生による実証法学の概念図

人間の性質を科学的に捉えて、法学の方法論として落とし込んでゆく……壮大なテーマですね。最後に、採択期間の3年間はどのような研究に取り組まれる予定ですか?

「これまでも、個別の論点としては関係するさまざまなテーマに取り組んできました。それらをまとめて大きな全体像を描くために、研究テーマ同士の隙間を埋めていく、横軸を通すというのがこの3年間の課題です。例えば、今までの研究ではなかなか踏み込めていなかったんですが、デザイナーやデザイン思考というのも、今後の法のありようを考える上でより重要な役割を果たすと思っています。人間と機械が協調動作をするときに、インターフェースデザインは非常に重要ですよね。もっと言えば、部屋の中での物品のレイアウトを変えるだけでも人間の行動は変化する。そんなふうに、私が今まで拾えていなかったポイントにもアプローチして、なるべく幅広い研究の基盤を作る3年間にしたいです。

私の研究は、生涯をかけても形になるかわからないようなものです。しかしだからこそ、じっくり腰を据えて取り組む意味があると思っています。この先何十年と続けていくための足腰を3年間で鍛えたいですね」

異分野の研究者との交流も積極的に行う。「AI時代の『責任・主体』をテーマに工学、認知心理学、哲学の研究者と開催したワークショップの様子

稲谷 龍彦(いなたに たつひこ)

法学研究科 教授

法務博士(京都大学)。東京大学文学部卒業後、京都大学大学院法学研究科修了。同 助教、准教授を経て、2021年3月より現職。専門は刑事学で、グローバル化する企業犯罪や科学技術と法規制のあり方について研究している。単著に『刑事手続におけるプライバシー保護−熟議による適正手続の実現を目指して−』(弘文堂)、共著に松尾陽編『アーキテクチャと法』(弘文堂)がある。

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