自然免疫システムと遠隔転移の関係を究明し、人々が安心してがん治療に向き合える未来へ「がんの遠隔転移は予防できるのか?」
医学部附属病院 放射線部 助教
中島 良太
農学研究科 教授
(インタビュー当時:工学研究科 准教授)
菅瀬 謙治
京都大学創立125周年記念事業の一つとして設立された学内ファンド*「くすのき・125」。このファンドは、既存の価値観にとらわれない自由な発想で、次の125年に向けて「調和した地球社会のビジョン」を自ら描き、その実現に向けて独創的な研究に挑戦する次世代の研究者を3年間支援するというものだ。
*「学内ファンド」とは、京都大学がめざす目標に向けて、京都大学が持つ資金を学内の教職員等に提供する制度のことです。
工学研究科(現 農学研究科)の菅瀬謙治先生が掲げる研究テーマは「非平衡生体分子科学が築く健康長寿社会」。生体内の環境を実験装置によって再現し、認知症などの原因となるタンパク質の線維化のメカニズムを明らかにしようとしている。「明るい健康長寿社会」につながる研究について、メッセージ動画とインタビューでお聞きした。
まずは先生の研究テーマについて教えていただけますか?
「私は生体内のタンパク質の機能について研究しています。タンパク質は私たちの身体の中でさまざまな機能を担っていて、生命を理解する上で欠かせない研究対象です。しかし、その振る舞いはまだまだ多くの謎に包まれています。たとえば、生体内には血流やリンパなどの流れが存在していますが、この流れが刺激となってタンパク質が独特の振る舞いをすることがわかっています。これがある種の病気を引き起こす原因にもなっているんです」
身体の中のタンパク質の振る舞いが病気の原因に……具体的にはどういうことでしょうか。
「ある種のタンパク質は、流れがある環境では分子レベルで凝集してオリゴマーと呼ばれる塊になり、それがさらに長く伸びてアミロイド線維と呼ばれる線維構造をつくります。脳の中でアミロイド線維が発生すると、どんどん増殖してやがて神経細胞を死滅させていきます。これがアルツハイマー病やパーキンソン病、筋萎縮性側索硬化症(ALS)といった神経変性疾患の原因となっているのです。しかしこれまでタンパク質の研究は静止状態で行われることがほとんどで、生体の中にあるような『流れ』の中でそうしたタンパク質の凝集や線維化がなぜ起こるのかという直接的な原因まではわかっていませんでした。
そこで私は、NMR(Nuclear Magnetic Resonance;核磁気共鳴装置)という装置を使って、流れの中でタンパク質のアミロイド線維化が起こるメカニズムを明らかにしようとしています。NMRは原子核の共鳴現象を利用する分析装置で、ナノサイズの試料をピコ秒(1兆分の1秒)から秒単位、時間単位というとても幅広いタイムスケールで観察できる非常にパワフルな性能を持っています。これを使えばタンパク質の原子レベルの振る舞いも観察することができるのです。人間がナノサイズの分子を観察すると言っても想像がつきづらいかもしれませんが、大きさの比率で例えるならば、太陽から人間を観察するようなものです。
研究のポイントは、静止状態ではなく流れのある状態でアミロイド線維化を観察することです。そのために私はNMRの試料に流れを加えるRheo-NMRという装置に着目し、さらに高精度な装置の開発に取り組んできました」
なんと、装置の開発からですか!
Rheo-NMRとは一体どんな装置なのでしょうか?
「NMRの内部には内径4.1mmのガラス管があり、そこに試料を入れて回転させながら分析することができます。しかし、この状態では試料はガラス管と一緒に回転しているだけで、静止しているのと変わりません。そこでRheo-NMRの登場です。Rheo-NMRの先端は直径3mmのガラス棒になっていて、これをガラス管の真ん中に挿し入れて動かないように固定するのです。すると、外側で回転するガラス管から、内側で静止したガラス棒までの間で、試料が回転する速度に偏りができます。このひずみ(剪断力)が生じた状態を、流れのある状態として観察するわけです。仕組みをお話しすると簡単そうに聞こえるかもしれませんが、ガラス棒の位置が少しでもずれると正しいデータが取れないため、非常に高い精度が求められる装置なのです。ただ、従来のRheo-NMRではタンパク質を測定できるほど精度が高くないという課題があり、これを克服するために装置開発に着手しました」
装置開発から手がけられたということは、あまり前例のない研究なのかと想像しますが、一体どんな経緯で現在の研究に行きつかれたのでしょうか。
「そもそもNMRという装置に魅了されたというところはありますね。私は長い間、酒造メーカーの研究職としてタンパク質よりも小さい、アミノ酸の集合であるペプチドの研究をしていたのですが、博士号取得を機に会社から留学させてもらえることになったんです。研究テーマは自由に選んでいいということだったので、当時注目されはじめていたタンパク質のNMR測定の研究をするために、アメリカのスクリプス研究所というところに留学しました。このときは本当に楽しくて、2ヶ月に1回、NMRを使える順番が回ってくると、真夜中でラボの電気が全部消えていても車のヘッドライトを照らして一人で研究に没頭していたほどです。アカデミアの道に進んでもいいかなと思えたのは留学経験が大きかったですね。
留学から帰国してしばらく経った2015年に、京都大学に着任しました。そこでNMRを使った新しい研究テーマを探していたときに、試料に流れをつくるRheo-NMRという装置の存在を耳にしました。さっそく装置を持っているドイツの研究所にアポを取って実物を見に行ったのですが、先にも申しましたとおり、当時のRheo-NMRではタンパク質の原子レベルの構造を分析できるほどの測定精度が出せないことがこの時にわかりました。それなら自分で作ってみようと思ったんです。知人からエアープロ株式会社という装置製造会社さんを紹介いただき、熟練の職人さんの力をお借りして開発したのが高感度Rheo-NMR『μRheo-NMR』です。私自身の研究に活用しているほか、製品として販売もしています」
そんな高感度Rheo-NMRを使った研究の成果はいかがでしょうか?
「実際に使ってみて、面白いことがいろいろとできるなという実感がありますね。最近では、ALSに関係するSOD1というタンパク質のアミロイド線維化を原子レベルで、しかもリアルタイムでモニターすることに成功しました。先ほどもお話ししたようにアミロイド線維化のプロセスには未解明の部分が多いのですが、流れのある環境でどのアミノ酸残基から凝集していくのかを初めて明らかにできたことは、大きな成果だと考えています。また、現在はタンパク質だけでなく、核酸やATP(生体内でエネルギーを貯蔵・運搬・供給する物質)の振る舞いについての研究もしています」
流れに関係して生体内で起こるさまざまな現象を再現できると考えると、活躍の幅は広そうですね。
くすのき・125では応募時に「125年後に向けた調和した地球社会のビジョン」をお聞きしています。先生のビジョンをお聞かせください。
「私は研究テーマを『非平衡生体分子科学が築く健康長寿社会』としました。非平衡生体分子科学というのは、先ほどお話ししたように流れなどの物理的な影響のある環境でのタンパク質の振る舞いを見る研究のことです。この研究は健康長寿社会とも深く関わっています。
日本は長寿大国と言われていますが、男性では平均してお亡くなりになる8年ほど前、女性では12年ほど前から、何かしらの支援や介護が必要な状態になります。健康でいられる期間、つまり健康寿命は実際の寿命よりもずっと短いのです。特に現在、支援や介護が必要となる第一の原因は認知症なんですね。そして認知症にはアルツハイマー病などの神経変性疾患が深く関わっています。
私はタンパク質の研究を通して、神経変性疾患の新たな治療法の確立に貢献し、健康寿命を長く維持できる『明るい健康長寿社会』を実現したいと思っています」
認知症はご本人はもちろん、ケアをする周囲の人々にとっても切実な問題ですよね。こうした問題意識は以前からお持ちだったのですか?
「実は、私の亡くなった祖母が晩年に認知症を患っていて、現在は叔父も認知症で支援を受けています。とくに祖母のときは両親がとても苦労していたのを見ていたので、なんとか力になりたいという思いは無意識下で持ち続けていたんだと思います。そんな思いが初めて明確に研究と結びついたのは、『くすのき・125』でビジョンを問われたときでした。そういう意味でも、とてもありがたい機会をいただいたと思っています」
ご自身とご家族の経験も込められたビジョンだったんですね。研究が進むとどのような新しい治療法に繋がりそうでしょうか?
「私自身はもともと創薬や医療が専門ではないので、基礎研究の立場から貢献できればと思っています。通常、医薬品というのはターゲットとなるタンパク質があって、そのタンパク質の形にすっぽりはまることで効果を発揮するようにデザインされています。しかしアミロイド線維化するタンパク質の場合は、いろんな状態を経て線維状の構造になるので、ターゲットの形がよくわからない。そのため、タンパク質がどの部位からアミロイド線維化していくのかを解明できれば、その部位に狙いを定めて作用する治療薬の開発へとつなげることができると考えています」
くすのきの採択期間では、どのような研究に取り組まれる予定でしょうか?
「私の研究は装置がないと進まないので、装置の開発に注力して使わせていただきたいと考えています。現在のμRheo-NMRでは均等な流れを作ることしかできないので、より生体内の流れに近い不均衡な流れや、流速が変わるような機構を備えた2号機を開発中です。それとは別に、試料に神経細胞内と同じような電場をかけながら分析できるような装置も開発中です。いずれもNMRに外付けできる装置になるように考えています」
外付けできる装置を開発されているのは、他の研究者にも気軽に使ってほしいというお考えがあるからでしょうか?
「そのとおりです。開発のポリシーとして、一人でこの装置を独占するのではなく、いろいろな研究者に使ってもらってこの分野を盛り上げていければいいなと思っているので、NMR自体は改造せず後付けできる装置というところにはこだわっています。
私達が開発したμRheo-NMRはイギリスの研究所に1台あるほか、アメリカ留学時代のボスも購入してくれました。μRheo-NMRを使った研究は世界中で始まっています。興味深い測定結果も出てきているのですが、私たち実験系の研究者だけではデータの解析が難しいので、データの扱いに長けた研究者との連携を模索しているところです」
そうすると、先ほど挙げていただいた神経変性疾患との関わりのみならず、タンパク質の基礎研究自体が大きく変わっていきそうですね。
「研究の長期的なビジョンとして考えているのは、『非平衡』というものをさらに深く理解することです。
力学的に平衡な状態での物質の振る舞いに関してはすでにいろいろな理論があって、自由エネルギーやエントロピーといった言葉で簡単に定義できるのですが、流れや電場があるような、つまり非平衡な状態に関してはまだまだうまく説明のつかないことが多いんです。
流れがあるとタンパク質同士がくっつきやすくなるって、立ち止まって考えてみると不思議ですよね。くっつく力、親和力といってもいいですが、その力が流れの中でどう作用するのかはタンパク質の種類によってもさまざまです。流れがあるとアミロイド線維化するものもあれば、結晶化するものもありますし、抗体医薬に用いられるタンパク質にはうまく撹拌しないとあっという間に凝集してしまうものもあります。他の分野に目を移すと、再生医療では幹細胞に流れを与えると分化がよく進んだりですとか、最近流行りのフェイクミートでも流れを使うことで歯ざわりを生み出しています。
流れの力はいろいろなところで利用することもできるし、一方で問題を引き起こしたりもします。それらを非平衡の科学ととらえて理解を深めることが重要なのではないかと考えています」
農学研究科 教授
横浜国立大学工学研究科博士前期課程修了後、財団法人サントリー生物有機科学研究所に研究員として着任。後に同 主席研究員。在籍中に横浜国立大学で博士号(工学)を取得。2015年より京都大学工学研究科准教授を経て、2022年より現職。専門は構造生物学・生物物理学。主な研究テーマはRheo-NMRによるタンパク質のアミロイド線維化機構の研究。