Behind Kyoto University's Research
ドキュメンタリー
Vol.41

生命にとって「音」とはなにか? 科学の未踏領域を探究する。「『音』を利用した次世代バイオテクノロジーへの挑戦」

生命科学研究科 助教
粂田 昌宏

くすのき・125

京都大学創立125周年記念事業の一つとして設立された学内ファンド*「くすのき・125」。このファンドは、既存の価値観にとらわれない自由な発想で、次の125年に向けて「調和した地球社会のビジョン」を自ら描き、その実現に向けて独創的な研究に挑戦する次世代の研究者を3年間支援するというものだ。
*「学内ファンド」とは、京都大学がめざす目標に向けて、京都大学が持つ資金を学内の教職員等に提供する制度のことです。

2021年度に採択された生命科学研究科の粂田昌宏先生のテーマは「『音』を利用した次世代バイオテクノロジーへの挑戦」。人間を含めた動物は耳を介して脳で「音」を認識しているが、それだけではなく細胞一つひとつが直接「音」を受け止め応答しているかもしれないという。音と生命の根源的な関係を探究することで、どんな未来のテクノロジーが生まれるのか? メッセージ動画とインタビューで伺った。

きっかけは音楽熟成ワイン。細胞は音を聴いているか?

まずは先生のご専門分野について教えてください。

「私の専門は細胞生物学です。主に哺乳類を対象として、身体を構成する細胞のさまざまな構造・機能がどのような原理で成り立っているのかを研究してきました。細胞の中では、タンパク質などの分子が絶えず合成され、細胞核や細胞膜、ミトコンドリアなどのさまざまな細胞小器官に送り分けられています。分子レベルの精密な送り分けがどのようになされているのか、その仕組みを解明することが私の主な研究テーマです。

一方、くすのき・125では同じく哺乳類の細胞を対象としながら、生命と音との関わりに着目した研究に取り組んでいます」

生命と音との関わりとは、一体どんなものでしょうか。

「きっかけからお話ししますと、私はお酒と音楽が好きで、あるとき音楽熟成ワインというものに興味を持ちました。発酵させるときに音楽を流すと風味が良くなるという触れ込みのワインです。音楽がお酒の味に影響を与えるという科学的根拠は現在のところないものの、発想としては面白いなと思って調べてみると、日本酒やビール、味噌、醤油など『音楽を聴かせる』製法を謳った食品のほとんどが発酵食品でした。

発酵とは、酵母菌や乳酸菌といった微生物が関わる一種の生命活動です。単細胞生物であるこれらの微生物が耳で音楽を聴いているはずはありませんから、『音』が細胞レベルで何らかの作用をおよぼしている可能性があるのではないかと考えました。

そもそも『音』とは何でしょうか。物理的には、空気中や水中を伝わる微弱な圧力の変動が波(疎密波)として伝わる現象です。人間を含めた脳を持つ動物は、この疎密波を内耳組織で受容したあと、脳で解釈してはじめて『音』として認識しています。この概念に従うなら、脳を持たない微生物や細胞一つひとつにとって『音』は意味をなさないことになりますが、本当にそうなのでしょうか? もし細胞一つひとつが直に『音』を受け取り応答することができるなら、これまでの常識を覆す大発見になりえます。

そこで先行研究をあたってみると、超音波が生体にもたらす作用に関する研究はあるものの、人間の耳に聞こえる音(可聴域音波)がもたらす作用についてはほぼ研究されていないことがわかりました。これは自分でやるしかないと考えて、もともと私が扱っていた哺乳類の細胞を使って、音を浴びせることでどんな変化が起こるのかという研究をはじめたんです。その結果、細胞はたしかに音に応答することがわかってきました」

細胞を培養しているディッシュ内に音波を照射する装置。上部の振動装置から培地内の細胞に対してさまざまな種類の音波を直接照射することができる

「生物が音を知覚できること」に重要な意味が隠されている?

超音波を扱った先行研究とはどんなもので、粂田先生はどうして可聴域音波に注目されたのか、もう少し詳しく教えていただけますか?

「音波のうち、人間が聞き取れるのは約20Hzから20kHzという周波数の範囲だけです。これよりも周波数の高い音は超音波と呼ばれます。

実は昔から、骨折した箇所に超音波を照射することで回復が早まるということは医療の現場で知られていて、保険適用の治療法としても確立されています。野球の松井秀喜選手やサッカーのデビッド・ベッカム選手などが受けた治療としてご存知の方もいらっしゃるでしょうか。この超音波治療法は、臨床的には確かな効果がみられるようですが、そのメカニズムについては長らく謎に包まれていました。2010年代に入って培養細胞を使った研究報告が見られるようになってきたところで、まだまだわからないことだらけなのが現状です。

一方、超音波と比べてエネルギーが微弱な可聴域音波については生命科学ではこれまでほとんど注目すらされておらず、超音波よりもさらに未開拓の分野です。私が可聴音にこだわる理由は2つあります。ひとつはこれまで誰も研究していないことを知りたいという素朴な探究心ですが、もうひとつは私たちがある範囲の周波数の振動を音として知覚できること自体に、生命にとって本質的な意味があるように思うからです」

耳に聞こえる音は、私たちが意識している以上に生命そのものにとって重要な存在だということでしょうか?

「そう考えています。生物が音を知覚することの起源を想像してみましょう。たとえばこんなシナリオが考えられます。原始的な単細胞生物が暮らす海で、海底火山が噴火します。噴火によって生物にとって重要なさまざまな物質や熱が海中に放出されますが、いち早く遠くまで伝わるのが振動です。そこで生物は、噴火というイベントによるメリットを享受するため、あるいはデメリットを避けるために、振動を『音』として察知して応答する能力を発達させていきます。それが高度に進化して、聴覚器官の発達につながっていったのではないでしょうか。

我々動物が音を知覚できる以上、それを一細胞レベルで利用する仕組みが備わっていても何ら不思議はありません。つきつめれば人間を含むあらゆる生物種が、一細胞レベルで音を利用しているのではないか? そんな問いが私の研究の根底にあります」

お話を聞かせてくださった粂田昌宏先生

「非物質」が生命科学を牽引する

くすのき・125では、125年後に実現させたい調和した地球社会のビジョンについてお聞きしています。粂田先生のビジョンをお聞かせください。

「生命科学は比較的新しい学問分野で、今から125年前には存在していませんでした。125年後には想像もつかないような発展をしているでしょう。その発展を牽引するのが『非物質』を扱う研究なのではないかと考えています。

これまで生命科学が扱ってきた要素は、イオンやホルモンなどの化学物質やウイルスや細菌をはじめとする感染体など、『物質』がほとんどでした。しかし現在、物質ではない要素、つまり電磁波である電磁放射線や光、熱力学エネルギーである重力、圧力、熱などの『非物質』に関する研究が盛んになりつつあります。生物が細胞レベルで重力や圧力に対しどう応答するかを扱うメカノバイオロジーという分野は、無重力状態での生命活動の探究にもつながるため、人類の宇宙進出に資する研究としても注目されています。ほかには、光を照射することで細胞の機能を操作するオプトジェネティクスなど、バイオテクノロジーの分野でブレイクスルーをもたらす知見が非物質の研究から出てきているのです。そして、私が扱う音もこうした非物質のひとつです」

音と生命の関わりを研究するうえで、達成したい目標はありますか?

「音が生命活動に対してどのように影響を与えているのかを細胞レベルで解明することで、基礎科学としての生命科学の幅を広げたいというのが第一の目標です。そもそも、多くの生物が空気や水の振動を『音』として知覚する能力を備えているのは、それだけ音というものが生命にとって本質的な意味を持っているからではないでしょうか。こうしたことを実証できれば、これまでの生命観が一変するようなブレイクスルーになるでしょう。

第二の目標は、医療やバイオテクノロジーへの応用です。音波は生体に刺激を与えるのに理想的なツールです。身体の深部まですぐに届く浸透性の高さ、薬剤などとは異なり、オンオフの切り替えや強度の調節が自在にできる操作性の良さ、そして何より、どんな化学物質を使うよりも安全という特長を兼ね備えているからです。非物質ならではのメリットを活用することで、遺伝子操作や細胞の分化のコントロール、さらに将来的には、病気の治療にも役立てることができる可能性を秘めているのです」

改めて、具体的な研究内容について教えてください。

「私の研究手法はシンプルで、細胞を培養しているディッシュ内に小型のスピーカーをくっつけるようにして音波を一定時間照射した後、照射した細胞としていない細胞の違いを比較するというものです。まず数時間から1日程度の短時間で観察できる変化として、音波を照射した細胞内では特定の遺伝子群の働きが活発になることがわかってきました。もう少し長い時間、数日から1週間程度となると細胞の分化も音波の影響を受け、例えば筋肉のもとになる細胞(筋芽細胞)に音波を照射すると筋肉への分化効率を高めることがわかりました。

細胞の種類によっても応答に差があり、筋肉や骨に分化する細胞は音波に対する応答性が高いという結果が出ています。これらの細胞群はもともと生物の運動に関係する組織のものですので、圧力の変化に敏感なのかもしれません。逆に、神経細胞や上皮細胞、がん化した細胞は応答性が低い傾向にあります。

さらに、音波の種類も重要です。波長や音圧、波形、あるいは複数の周波数を重ね合わせた和音といったバリエーションによっても応答性が変わるため、さまざまな細胞と音波とを組み合わせて研究に取り組んでいます」

音波を照射する前の細胞(左)と、音波を照射しながら分化を促進した筋肉の細胞(右)

くすのき・125の採択期間の3年間で取り組まれる内容について教えてください。

「まずは基礎研究として、細胞の種類と音波の種類の組み合わせによってどういった応答が起きるのかをさらに深く掘り下げるとともに、細胞が音を受容する分子メカニズムについても究明していきたいと考えています。

それと同時に、音を使ったバイオテクノロジーにつながる研究を開拓していきたいと考えています。先ほども、筋芽細胞の筋肉への分化が音波の照射によって促進されることをお話しましたが、このメカニズムを解明することで、産業界で現在行われている食肉培養などに応用できる可能性があります。食品は安全性が第一ですから、薬剤を使わずに培養を促進できることは大きなメリットになります。さらに先を見据えると、移植医療などにも応用できるでしょう。この3年間で、まずは筋肉への分化が促進されるメカニズムの解明と、どんな種類の音波でより効果が大きくなるかという研究に取り組みたいと考えています」

生命という未解明のブラックボックスに光を当てる。

「生命にとって音とはなにか」を探究するにあたり、今後取り組みたいテーマなどがあればお聞かせください。

「現在のところは物理現象としての音と細胞の関係に着目していますが、今後は生物が音を知覚する能力とも関連付けて、生命にとって音のもつ意味について探究していきたいです。

多くの動物は、本能的に避けたくなる不快音や、相手を寄せ付けないために発する警戒音を聴き分けています。あるいは人間であれば、音楽を聴いて心地よさを感じることもあります。そうした音に対する快・不快感情のほとんどは後天的な学習によって獲得されたものだと言われているのですが、一部の音に対する不快感情は先天的なものだとする説もあるそうです。音に対する快・不快の感情と細胞レベルで音から受ける作用の間に関係があるのかどうか、不快音とされる種類の音を使って研究したいと考えています」

私たちを取り巻く世界と私たちの感覚とをつなぐ研究に発展していきそうで、とても興味深いです。

「生命科学の面白さは、理論から詰めていくこともできるし、生命というブラックボックスから出てくる反応を見ながら原理を導き出すこともできるという、研究の双方向性にあると思っています。理屈ではこうなるはずだという理論があっても、目の前の生命活動を観察すると全く別のことが起こっているということがしばしば起こります。また、そうした謎が新しい理論を導く手がかりにもなっていきます。

生命にとって音とは一体何なのか、その根源的な関係はおそらくまだ世界で誰も知らない「科学の未踏領域」ですが、研究を通して何らかの答えを示すことができれば嬉しいですね」

粂田 昌宏(くめた まさひろ)

生命科学研究科 助教

2010年 京都大学大学院生命科学研究科博士後期課程 修了。同年より現職。専門は細胞生物学。哺乳類の細胞内の複雑な構造を形作るタンパク質群の構成と動態や、細胞内情報伝達の仕組みの解明に取り組む。さらに、近年は可聴域音波に対する細胞応答の探索に精力的に取り組んでいる。

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