Behind Kyoto University's Research
ドキュメンタリー
Vol.50

記憶の物理的な実体をつきとめ、人々の生活の質の向上につなげたい。「『記憶』研究を社会応用するための技術開発」

医学研究科 特定准教授
後藤 明弘

くすのき・125

京都大学創立125周年記念事業の一つとして設立された学内ファンド*「くすのき・125」。このファンドは、既存の価値観にとらわれない自由な発想で、次の125年に向けて「調和した地球社会のビジョン」を自ら描き、その実現に向けて独創的な研究に挑戦する次世代の研究者を3年間支援するというものだ。
*「学内ファンド」とは、京都大学がめざす目標に向けて、京都大学が持つ資金を学内の教職員等に提供する制度のことです。

2022年度に採択された医学研究科の後藤明弘先生が挑むテーマは「『記憶』研究を社会応用するための技術開発」。記憶の物理的基盤を研究するなかで開発した「光で記憶を制御する技術」、その可能性とは? メッセージ動画とインタビューで伺った。

私たちはなぜ記憶していられるのか? その物理的な実態を解明する

まずは、後藤先生のご専門の研究について教えてください。

「私の専門分野は神経科学で、記憶が脳の中に保存されるメカニズムについて研究しています。多くの方は子供の頃に経験した出来事を覚えていらっしゃると思います。つまり、人間の場合は何十年という長期間にわたって記憶を保存できるのですが、そのようなことがなぜ可能になるのかというメカニズムを、分子レベルで解明したいと考えています」

記憶というと掴みどころのない対象のようにも思えますが、一体どのように研究されているのでしょうか?

「記憶というテーマは、哲学や自然科学など、多岐にわたる分野で研究されています。私も学部生の頃からこのテーマに惹かれ、そのなかでも記憶の物理的な基盤に焦点を当てて研究に取り組んできました。

記憶とは、行動や意識のなかにあるものと言えるでしょう。人間であればどんなことを覚えているか言葉で説明することもできますが、それ以外の生物の場合は行動を観察することで記憶の有無を判断することになります。さまざまな状況での行動を比較することで、こういう行動を取るということは、過去のこの出来事の記憶が反映されているのだろう……と推察できるというわけです。

そういった記憶という現象の実態は脳に保存されていると考えられます。記憶が脳内でどのように作られるかを研究するアプローチ法は多岐にわたりますが、その中でも、物質から記憶を説明しようとする生物学的なアプローチが私の性格に合っていたようです。この分野では、脳のどの領域の、どの細胞の中にある、どの分子の挙動が記憶の実体なのかを突き詰めていく、つまり記憶の正体を物質の挙動から明らかにすることを目指します」

脳の仕組みを分解していくことで、記憶も一種の物理現象として扱うことができるんですね。記憶と言ってもいろいろな種類がありそうですが、先生が扱うのはどんな記憶なのでしょうか。

「記憶には、自転車を漕ぐ動作のような『運動記憶』、あるいは昨日の晩ご飯が何だったかといった言葉で表現できるような『エピソード記憶』などがあります。私はこのうちエピソード記憶について主にマウスを使った実験を行い、記憶に関わるそれぞれの脳領域を細胞や分子の働きから解明する研究に取り組んでいます」

記憶のありかを探す研究のなかで生まれた「光で記憶を消去する」技術

くすのき・125では、125年後に実現させたい調和した地球社会のビジョンについて伺っています。後藤先生のビジョンをお聞かせください。

「若い世代でも高齢の世代でも、質の高い生活を送ることができる社会を実現したいと考えています。現在、高齢化が進むにつれて、アルツハイマー病をはじめとした認知症の患者さんが増加傾向にあります。また、辛い出来事を経験して心的外傷後ストレス症候群(PTSD)を患う方へのケアも重要な課題となっています。

私は、記憶のメカニズムを解明・応用することで、こうした神経疾患や精神疾患の治療に役立てたいと考えています。まだ遠い将来にはなりますが、認知症の患者さんには生活に必須な記憶を増強し、PTSDの患者さんにはつらい記憶だけを消去するような安全な技術を確立できれば、世代を問わず記憶にまつわる疾患に悩まされることが軽減された社会を実現できるかもしれません」

ビジョンの実現に向けて取り組んでいるご研究について教えてください。

「記憶には脳のさまざまな領域が関与していることが知られていますが、どの段階で、どんな脳領域が記憶を担っているのかという詳細についてはまだまだ研究途上です。それを明らかにするために、私は光を使ってマウスの特定の脳領域の記憶を消去する技術を開発しました。この技術を使ってマウス実験を行い、これまでに『海馬』と『前帯状皮質』という2つの脳領域の記憶への関与を明らかにすることができました」

記憶に関する脳領域を調べるマウス実験とは、どんなものなのでしょうか?

「記憶の有無や記憶力の程度を調べる基本的な方法として、恐怖条件付け実験というものを採用しています。まず、暗い部屋と明るい部屋を用意して、その間をマウスが自由に行き来できるようにしておきます。そして、マウスが暗い部屋に入ったら電気刺激を与えます。マウスにとって『嫌な出来事』を経験させるのです。

この条件付けの後に、マウスの特定の脳領域に光を当てて“記憶を消す”処置を施します。その際に鍵となるのは、この処置が “記憶が出来てから” 30分以内だけ効果があるということです。そしてまた後日同じ環境を用意して、マウスが明るい部屋から暗い部屋に移動するのにかかった時間を計測します。『嫌な出来事』を記憶していれば暗い部屋には入りたがらないと予測されるので、その行動の選択によって記憶が消えたかどうかを計測できる、という仕組みです。

この実験でもし記憶力が落ちていたら、光を当てたその脳領域とタイミングで記憶が作られていたと結論づけられるわけです」

光照射による記憶消去の実験例。
この記憶課題では明室と暗室がドアで仕切られており、まずマウスを明箱側に入れる。その後、暗箱へのドアが開くと、マウスは明るい所を嫌うため30秒以内に暗箱側に移動する。しかし、暗箱で電気ショックを受けると危険を学習し、2日目に同じテストをすると暗箱側への移動にかかる時間が長くなっていく。この移動時間の長さから、記憶の有無や強度を判断する。
学習前後の様々なタイミングで海馬という脳領域に光ファイバーで光を照射した。すると、電気ショック後2-10分の間に光照射した時には記憶が消去されたことから、海馬では学習直後に記憶が作られていることが分かった。

その処置に使うのが、光を使って記憶を消す技術ということですが、一体どのような技術なのでしょうか。

「まず、脳の中に記憶がどのように保存されているのかというところからご説明しましょう。脳では、神経細胞どうしがシナプスと呼ばれる構造を介して情報を伝達しています。情報を受け取る側のシナプスの先端にはわずか1ミクロンほどのスパインという構造があり、このスパインが大きくなることで情報伝達の効率が上がります。ある脳領域の情報伝達効率が良くなることは、すなわち記憶が形成されていることを意味するので、実質的にはこのスパインが長期的に大きくなっている状態が『記憶が蓄えられている』状態とイコールだと考えられます。つまり、海馬の神経細胞にあるスパインが大きくなることで、海馬に記憶が作られる、と考えられるのです。

専門的には、このスパインの増大を『シナプス長期増強(Long term potentiation, LTP)』と呼びます。LTPにはさまざまな物質が関わっているのですが、とくに重要なのが『コフィリン』というタンパク質です。コフィリンは脳が学習による刺激を受け取るとスパインに集まり、スパインが大きくなるのを助ける役割をしています。そこで私は、遺伝子改変技術を使って、光を当てたときだけ壊れるように細工したコフィリンがマウスの海馬や前帯状皮質に生成されるようにしました。これにより、光を照射したタイミングとその脳領域でのみコフィリンを破壊し、LTPを解除することに成功しました。この技術を使うことで記憶が形成されるタイミングと場所が厳密にわかるというわけです」

左:光によるコフィリンの不活化。光増感タンパク質とコフィリンを融合したタンパク質を用いる。光を照射すると、光増感タンパク質から活性酸素が発生し、コフィリンを特異的に不活化することができる。
右:光によってLTPが解除されたことを示す実験例。二光子顕微鏡によってスパインとコフィリンを観察した。赤色がスパイン形態を、緑色がコフィリンの量を示す。LTPを誘導するとコフィリンが集積してスパインが拡大する。その後、光をあててコフィリンを不活化すると、スパイン内のコフィリンが減少し、スパインが縮小したことから、LTPが解除されたことが分かる(17分時点の画像右上にあるバーは1ミクロンの長さを表す)。

ある脳領域のLTPを光で阻害して、恐怖条件付け実験で記憶が消えているかどうかを計測することで、いつ、どの脳領域で記憶が形成されているのかがわかるのですね。

「この方法を使うことでわかってきたのは、マウスが学習すると、新しい記憶はまず海馬で作られ、その翌日には前帯状皮質に記憶が移行し始めているということでした。具体的には、学習した当日の睡眠中に海馬でLTPが起き、学習翌日の睡眠中には前帯状皮質でLTPが起きることで記憶が作られることを明らかにしました。時間の経過とともにLTPが完全に海馬から前帯状皮質に移るのかどうかは結論が出ていないのですが、少なくとも学習した翌日の睡眠中には、記憶の実体が前帯状皮質に移り始めていることが明らかとなったのです。よく『勉強した後に寝ると記憶の定着が良い』と言われますが、その説を分子レベルで裏付ける成果と言えるでしょう。

この方法を確立するのに丸5年かかりましたが、一度確立できればあとはこれを使って研究を進めるのみです。くすのき・125で取り組む研究では、海馬や前帯状皮質で成果を上げてきたこの手法を他の脳領域にも展開するとともに、特殊な小型顕微鏡を新たに導入して、マウスの神経活動を直接観察します。これにより、脳のさまざまな領域が関係する記憶のメカニズムをより包括的に解明したいと考えています」

過去のつらい記憶を消去し、忘れたくない記憶を強化できるようになる!?

光で記憶を消去する技術についてさらに伺いたいのですが、これまでの手法と比べてどんなところが新しいのでしょうか?

「光で神経活動を操作する手法はオプトジェネティクスと呼ばれ、研究のトレンドにもなっています。これまでのオプトジェネティクスでは、光を照射することで特定の神経細胞の活動を操作していました。しかし、一時的に神経細胞の活動を操作したとしても、記憶の形成や蓄積された記憶そのものを操作したことにはなりません。先ほどご説明したとおり、記憶の形成にはLTP、つまりスパインの長期的な増大が必要だからです。私の開発した手法は、このLTPに欠かせないコフィリンを破壊することで、記憶の実体を特異的に操作できるという点で全く新しいものです。

また、記憶を消す技術ということでいうと、これまでにもスパインの増大を阻害することで記憶を消す薬というものはありました。ただ、薬物は薬効がある程度の時間持続してしまうため、たとえば睡眠中のLTPが起こる間だけ作用させるということが難しいことが弱点でした。その点、光を使う方法であればLTPが起こるタイミングを狙って作用させることができるというメリットがあります。ですから理論上は、特定の記憶だけをピンポイントで消去するということも可能になります」

先ほどのお話では、新しい記憶が作られるタイミングで光を当ててスパインの増大を抑制するということでしたが、過去の記憶を消すようなこともできるでしょうか?

「実はそれもマウスでは成功しています。LTPと同じような現象は、スパインで記憶が作られるときだけでなく、過去の出来事を思い出す際にも起こることが示唆されているのですが、そのタイミングでコフィリンを壊すと、思い出しかけていた過去の記憶を消すことができると考えています。実際、マウスでは一週間前の記憶をある程度消すことに成功しています。今後さらに古い記憶を消すための条件検討を行い、PTSD治療などの臨床応用の可能性を検討していく予定です」

顕微鏡などの器具を自作して実験に取り組む後藤先生

記憶を消すのとは逆に、記憶を増強することもできれば、さまざまな需要が生まれそうです。

「記憶の増強は、まさにくすのき・125で取り組みたいテーマのひとつです。多くの場合、生命活動は細胞の活動を増進する物質と抑制する物質のバランスで成り立っているので、スパインの増大を抑制する方の物質を突き止めて壊すことができれば、特定の記憶を増強することができるのではないかと考えています。ただ、もとからあるものを伸ばすことは壊すことよりも難しいですから、かなり挑戦的な研究にはなるでしょう。だからこそくすのき・125にふさわしいテーマではないかと思います」

最後に、この技術を今後どのように発展させたいとお考えでしょうか。展望をお聞かせください。

「記憶を消したり、増強したりする技術を応用することで、将来的に精神疾患や神経疾患の治療にも役立てることができるのではないかという思いで、医療の現場で使っていただくことを最終目標として、応用研究にも取り組みたいと考えています。現在はマウス実験が主ですが、安全面に十分に配慮しつつより人に近いサルなどの動物で実験をできればと考えています。また、せっかく医学研究科に所属しているので、医学系の方との共同研究にも展開していきたいです。

言うまでもなく、記憶はその人の根幹にかかわるものなので、実用化には最大限慎重を期すべきです。しかし、戦争や大きな災害でPTSDを患った方や認知症に苦しむ方のなかには、こうした技術を必要とされる方もいらっしゃるでしょう。現在はあくまで基礎研究の段階で、安全面でも倫理面でも非常に高いハードルをいくつもクリアしていく必要がありますが、将来的には適切な診断のもとで提供される治療法の選択肢のひとつになればと考えています」

後藤 明弘(ごとう あきひろ)

医学研究科 特定准教授

2013年、京都大学大学院生命科学研究科 修了。博士(生命科学)。同大学院医学研究科 助教などを経て、2023年4月より現職。専門は神経科学。記憶の物理的基盤の解明に関心を持ち、マウス実験やイメージングによって記憶が長期間保存に関する分子メカニズムの解明に取り組んでいる。2021年には光によって記憶を消去する手法を開発。医療への展開を視野に入れた応用研究にも取り組んでいる。

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