冨井眞 文化財総合研究センター 助教
京都大学構内には、縄文時代や弥生時代の遺跡をはじめとして数多くの埋蔵文化財が存在しています。果たして「大学を発掘する」ことで何が見えてくるのか?キャンパスの建物や施設の建設予定地を発掘し、調査報告と研究を行っている文化財総合研究センターの冨井眞(とみいまこと)助教に、その意義についてうかがいました。
冨井 眞
文化財総合研究センター 助教
「キャンパス構内」という特殊なフィールド
――まずは、文化財総合研究センターの役割について教えてください。
冨井助教 吉田キャンパス内の北白川追分町遺跡(縄文時代)や、大阪・高槻市にある農学部附属農場内の安満遺跡(弥生時代)に代表されるように、京都大学と関連施設のほぼ全域に埋蔵文化財があります。センターの役割は大きくふたつ。新たな建物の建設予定地の発掘調査と、出土した文化財の研究・分析方法の開拓です。
――以前は、埋蔵文化財研究センターという名前だったようですね?
冨井助教 旧・埋蔵文化研究センターが設置された1977年以来、延べ 100,000㎡ を越える発掘調査を行い、膨大な資料を蓄積してきました。ただ「ここに何が埋まっていたか」を発掘、復元するだけでなく、「ここで何が行われていたか」といった人のふるまいや営み、さらには「ここで何が起こったか」という自然災害の分析までアプローチするようになりました。
――研究の対象が広がっているということでしょうか?
冨井助教 特に阪神・淡路大震災以降、災害に対する関心が高まったという背景もあって「ここで何が起こったか」については、学内を中心に自然科学系の先生方と連携して研究を進める機会が増えました。約2,400年前、この地域で土石流が発生していたことは事前研究で分かっていたので、従来なら、その下に埋もれている層からのデータを重視していたのですが、せっかくコストをかけて掘るのだからと、土石流が含まれる自然堆積層そのものの研究・分析も行うようになりました。
――発掘現場が大学構内であるという点は大きいですね。
冨井助教 そうですね。考古学調査はコストとの戦いです。多くの発掘現場は、建設予定といったスケジュールや、人件費や重機レンタル費などのコストの制約を受けます。もちろん我々も同じ状況にはあるのですが、発掘のための時間的な猶予や、調査・分析の協力が得やすいというアドバンテージは少なくありません。
――考古学研究者としての冨井助教のご興味は、どういったところにありますか?
冨井助教 「ここで何が行われていたか」を復元することですね。いま発掘調査を進めている薬学部構内の聖護院川原町遺跡には、石垣の遺構があるのですが、そういったものがどのような手順で作られたかといったことに関心があります。
――構造だけではなく、それが作られた手順を「復元」するということですか?
冨井助教 はい。例えば石垣や井筒といったものなら、発掘の段階でそれぞれ石の上下左右の位置関係を確認しながら、一つ外してはデジタルカメラで記録するという作業を繰り返すこともあります。そうして収めた全画像を時間的に遡りながら精査することで、どの部分から、どういった順序で石を組み上げて行ったかを「復元」することができます。ああ、この井戸は、人手を使って必要な石を集めて、完成形を目指して一気に作ったのではなくて、ひとりの人が、自分の手の届く範囲で隣り合う石の組み合わせを確認しながら、コツコツと作ったなという具合に、人の行為そのものを究明するわけです。
――そういった分析は、土器などでも行うのでしょうか?
冨井助教 土器の場合、「どうして割れたか」を分析します。破片ごとに出土した状況通りに、縦横の座標と深さ、表裏の向きまですべて記録して、その土器が割れた原因を探るわけです。単に土の圧力を受けて割れたのか、割れた破片をゴミとして捨てたものなのか、それとも誰かが意図的に割ったものなのか、もし誰かが割ったとして、どのような角度で地面に叩き付けたのか…といったことまで分かることもあるんですよ。
――それはまるで刑事ドラマに出てくるような…(笑)。
冨井助教 そうです、まさに殺人現場を鑑識するようなものですよ(笑)。
許されることなら、できるだけ深く掘りたい
――考古学の道に進もうと思われたのはいつですか?
冨井助教 明確に考古学というものを意識したのは、大学受験を考え始めた時です。それまで日本史、特に古墳時代に強く惹かれるものがありましたので、高校の歴史の先生の勧めもあって京大で学ぶことを選びました。
――考古学専攻は、文学部ですね。
冨井助教 日本の教育体系では、考古学は歴史学の系統として位置付けられていますね。文献に書かれた史実をなぞるようにして、遺物や遺跡といった物質文化から歴史を復元するというアプローチです。
――「ここで何が行われていたか」と、人の行為そのものを復元する現在のアプローチとは少し異なる印象を受けますが。
冨井助教 学部の専攻当初は、縄文時代を中心とする土器や石器を研究テーマとしていました。でも、研究を進めるうちに、文化や社会の時代や地域ごとの違いを探る前に、それぞれの土器や石器に見られる固有の特徴をどのように説明すれば良いのか悩むようになったのです。その論証の根拠を求めるうちに、「ここに何が埋まっていたか」という主題から、「ここで何が行われていたか」を復元することに、次第に興味が移っていったのだと思います。
――ブレイクスルーのきっかけがあったのでしょうか?
冨井助教 大学を出てからも、考古学研究を続けるかどうか迷っていた博士課程の時に経験したイギリス留学ですね。将来への漠然とした不安を持つ一方で、世界でも注目されている縄文時代の土器の研究をしていたという自負もあって、考古学の本場で自分を試そうというつもりで行ったのですが…。
――イギリスで一体何があったのですか?
冨井助教 当たり前のようですが、日本の教育体系とは全く別の考古学と出会いがありました(笑)。例えば「堆積物から地中環境の変化を読み取りなさい」や、「花粉のデータを使って何か議論しなさい」といった自然科学系のテーマから、「モダニズムの考古学に与えた影響について論じなさい」といったものまで、それまでの自分になかった視点を得る機会となりました。
――同時に、漠然と抱かれていた研究アプローチの疑問も解消されたということですね?
冨井助教 ある国の歴史を紐解くという考古学の役割として、ローカルヒストリーに寄った手法が独自に発展することは大切なことだと思いますが、より掘り下げた研究を行うためには、複数のアプローチ方法を知っておく必要があると感じました。縁あって、現在の環境で発掘現場を与えられるようになりましたので、あれも試そう、これも試そうと積極的にチャレンジするようにしています。
――その変化の産物として、どういったことが挙げられますか?
冨井助教 考古学を研究されている方はもちろんですが、研究や分析で協力を仰ぎたい他分野の研究者に対するアウトプットの仕方が変わったように思います。プレゼンテーションする相手によって伝え方を選んで、私自身の研究成果やテーマに興味を持っていただければ、新たな視点や気付きをいただくことができます。同じコストで「いかに深く掘るか」を強く意識するようになりましたね。
――最後に、今後の展望について教えてください。
冨井助教 センターが設置されて約40年間、発掘調査を続けていますが、まだ全対象地域の3割程度です。許されることなら出来るだけ掘り続けたいのですが、そういうわけにもいきません。極論ですが、誰が発掘しても同じものが出てくるわけです。何より考古学に大切なのは、発掘するものからより多くの情報を引き出す手法ですから、新しい調査・分析方法の開拓に一層、力を入れていきたいと思っています。
――それにしても、現場では特に活き活きとされていましたね(笑)。本日はありがとうございました。
冨井助教にとっての「研究力」とは?
学内に各分野の第一線の研究者がいらっしゃるので連携が取りやすいという点、学外にも京都大学のネームバリューを活かした国内外の協力が得やすいという点が挙げられると思います。一方で、京都大学にしかできない、京都大学ならではの研究も数多くありますので、その恵まれた環境を十分に活かした研究成果を出して、発信・共有しなければならないという使命感やプレッシャーのようなものも感じています。
冨井 眞(とみいまこと)
京都大学文化財総合研究センター助教/先史考古学専攻