Biographies of Kyoto University's Personnel
京大人間図鑑
Vol.29

溝端 佐登史 経済研究所 名誉教授・特任教授 先端政策分析研究センター(CAPS)センター長

20世紀のロシアは、経済学から見て2つの大きな「社会実験」を体験しました。一つは、1917年のロシア革命、1922年のソ連成立以降の「社会主義体制」、もう一つは1991年のソ連崩壊に伴う社会主義から資本主義への「移行経済」です。このように振れ幅が大きく変動するロシア経済、ひいてはロシアという隣国を我々はどのように理解すればよいのでしょうか。
経済研究所において長年ロシア経済の研究を続けている、溝端佐登史名誉教授にお話を伺いました。
また後半では、経済研究所附属の先端政策分析研究センター(CAPS)のセンター長として、最先端の経済理論と実際の政策立案を結び付ける取り組みについてもお話を伺いました。

溝端 佐登史
経済研究所 名誉教授・特任教授
先端政策分析研究センター(CAPS) センター長

ソ連にビジネスチャンス?

――まずは、ロシア語を学び始めたきっかけについて教えてください。

溝端教授 元々社会科学と言語に関心があって、国連公用語の中でもマイナーなものを、と考えて大阪外国語大学(現:大阪大学外国語学部)のロシア語科に入りました。ロシア語についての知識は全くありませんでしたが、使用される領域も広い言語でしたから、そこにビジネスチャンスを見出していたのです。ロシア語学科に入学したばかりの頃、同級生と「なぜロシア語を選んだのか」という話になって、皆がロシア文学に関心を向ける中、私だけ「儲かると思って選んだ」と言って顰蹙を買ったのをよく覚えています。

――社会主義国のソ連にビジネスチャンスを見出していたというのは、今の私たちからすると意外な気もします。

溝端教授 私が大学に入学した当時は中東でオイルショックが起こった直後で、シベリアの資源開発に関心が寄せられていた時代でした。また、確かに社会主義国ですから、バリアがあるなとは思いましたが、むしろバリアがある方が誰にとっても等しく難しいはずですので、自分にもチャンスがあるかな、と思いました。

――社会科学に元々関心があったとのことですが、その中でもなぜ経済学を選ばれたのでしょうか。

溝端教授 社会科学の中でも、法学や政治学といった分野は、東京に情報が集中しがちで、関西でやるにはハンデがありました。むしろ関西ではデータを見ながら物事を考える風潮が強くて、政治学や法学よりも経済や実学に対する関心が強かったというのもありますね。

それからもう一つ、外国語大学にいたからこそ、「日本とは何か」ということを常に考えさせられました。外国のことを勉強すればするほど、日本の「異常さ」、特徴がよく分かるようになります。経済学においては、「違う」ということが非常に重要で、異なるもの同士を比較して、なぜ異なるのかを考えることで、独創的で新しい知見を引き出すことができます。その点で、日本とソ連の比較は経済学にとって良い研究対象になり得たのは確かですし、実際アメリカでも注目された領域です。

人はなぜ働くのか

――具体的には、どのようなことを研究されていたのでしょうか。

溝端教授 「人はなぜ働くのか」ということに関心があって、卒業論文ではソ連企業の分析を行いました。当時のソ連経済のテキストには、道徳的インセンティブが強い、つまり「ソ連の労働者は生き生きと働いている」と書いてあったのですが、「噓でしょ」と。人は誰しもどこでも一緒で、できれば働きたくない、月曜日は憂鬱になるだろうし、金曜日は嬉しいんじゃないのと。もっとも確かな根拠もなく当時の教科書とは異なることを書いたものですから、先生には叱られましたね。

――大学院に進学された際も、同様の問題意識をお持ちだったのでしょうか。

溝端教授 卒論を書いた当時、実はもう就職も決まっていて、赴任先まで決まっていたんです。それでも、卒論でやりかけたテーマが気になっていて。「人はなぜ働くのか」(体制が違えば人は変わるのか)というテーマで本当に研究できるのか、ということが自分でも分からなかったんですけど、人間そのものに関し未解決テーマを抱えた経済学って何だろう、という思いはずっとありました。就職するかどうか、かなり悩みましたけれど、それでも大学院に行って研究してみるのも面白いかもしれない、ということで進学することにしました。まさか全然就職がないとは思いませんでしたが。

大学院に進んでからも、そして今も基本的な問題意識は変わっていません。修士論文で扱ったのは、当時のソ連企業の構造分析で、西側企業とは技術および組織構造の相違性が存することを実証しましたが、博士後期課程でも同様の問題を扱いました。基本的には、ずっと私のテーマはソ連・ロシアにおける企業と労働の問題ということで、全く変わっていません。成長していないのかもしれませんね。

外国を研究する方法としての比較

――ロシア・ソ連研究者として、「ソ連とは何か」というのは一つの大きな問いであるように思いますが、先生はどのようにこの問いに取り組まれたのでしょうか。

溝端教授 社会科学にせよ人文科学にせよ、アプローチの違いがどこまであるのか、私には正直分からないのですが、例えば、文学で言えばドストエフスキーが考えたロシア人像について自分で考える、というアプローチは可能と言えば可能なのでしょうが、同時に日本の器でロシアの人を判断するわけですから、そこにリアリティがあるのか疑問を覚えます。ソ連は確かに社会主義システムのモデルと位置付けられますが、同時にロシアという特殊な地域で生じた事象であることも無視できません。

経済学でも同じことで、外国の経済を日本人の目からどのように見るべきか、という問題はすごく難しいと思います。そこで大切になるのが日本との比較で、日本人研究者による外国の研究に当たっては、比較研究のような方法が主であるべきと考えています。以前、ロシアの社会学者に弟子入りしていた際に言われたのは、「日本人がそのままロシアを研究したとしても、ロシア人ではないために深奥まではわかりえない。だから、あなたたちがここに問題があると思っていても、ロシア人が同様にそう思うかどうかは分からない。日本やその他の外国との比較を通してロシアを見、それに依拠して一般化する方法が良いのでは」ということでした。

ただし、ソ連なりロシアを比較するだけでは経済学の研究にならないこともまた事実です。経済学の思考や方法にどのように合わせていくか、ということも考えなければなりません。ロシアやソ連を見る場合、どうしても無視できない経済制度や人間行動における「異質性」を、経済学のツールを使って上手く相対化することができれば、優れた研究になるのですが、それができなければ単なる「地域情報屋」になってしまいます。 ソ連とは何かを語る上で難しいのは、マルクスや社会主義という「システム」に由来する要素と、革命前のロシアにまで遡る「ローカル」な要素がオーバーラップしている点です。現実には後者の要素が強く作用していたと思っています。「人はなぜ働くのか」という問いに即して言えば、「ソ連の労働者は生き生きと働いている」という教科書的な記述が前者に当たりますが、現場に行ってみると体制が異なっても普通に皆がタバコ吸ってたり、休み時間が長かったり、飲み屋に行けば無茶苦茶飲んだり、というのが実態なわけです。そうした実態は現場を見ないと分かりませんので、現場感覚のために私はできるだけ多くの現場を見るようにしています。

ソ連崩壊の衝撃と副産物

――先生はソ連崩壊から市場経済への移行期をリアルタイムで観察されてきましたが、どのような印象を持たれましたか。

溝端教授 危機感ですね。ソ連が崩壊した時は、研究を続けるか本気で悩みました。先ほど述べました通り、ソ連は「システム」に由来する要素と、「ローカル」な要素が複雑に絡み合っています。ソ連では制度上前者の「システム」の方が優位でした。つまり、ソ連(経済)研究とは、まず社会主義というシステムの研究であって、それがソ連研究の面白みだったわけです。自ずと方法はシステムを念頭にしていました。

しかし、対象となるシステムがなくなってしまい普通の資本主義国になる、あるいはロシア経済が混迷を極めてGDPが下がり続けている中で、発展途上国の研究と変わらないのではないか。当然方法そのものが問われる以上、ロシア研究を続けていいのか、かなり悩みました。

それで、逃げるようにして1995年からイギリスに1年ほど滞在して、その後も断続的にイギリスに行きました。学生の時に読んだロシア・ソ連経済研究で著名な先生方に、研究の現状と今後について、意見を聞きに行きました。今後も研究を続けますか、それとももうやめますかと。すると、「何を言っているんだ。例えば、ローマ帝国がなくなったからと言ってローマ帝国の研究をやめるのか、そんなことを言うのはお前だけだ」と凄く叱られまして。

ですがそれ以降は、その先生方のもとで1年間みっちり勉強させてもらい、新しい方法の試行錯誤、共同研究も沢山させて頂きました。この時に得た先生方との繋がりは今でも大きな財産になっています。また、90年代のロシアには経済的な混乱が続いていて、ロシア人の研究者もイギリスなどに逃れてきている状況でした。ソ連崩壊以降、東側諸国とも人の往来が自由になったおかげで、イギリスで世界トップレベルのロシア経済研究者と一気に繋がることができて、国際共同研究も格段に増えました。これはソ連崩壊の副産物かもしれませんね。

ソ連崩壊・ウクライナ侵攻以降のロシアの研究環境

――ソ連崩壊以降、ロシアの研究環境はどのように変化したのでしょうか。

溝端教授 伝統的にソ連においては、科学アカデミーとその附属研究所が研究を、大学が教育を担うという形で、研究機関と教育機関が明確に分かれていました。ですが、ソ連崩壊によりロシア連邦政府の国家予算が逼迫し、日本以上に「選択と集中」が進み、科学アカデミーも大学も厳しい状況に置かれています。こうした状況下で、大学はかなり「西欧化」が進み、研究と教育の双方を担うようになりました。一方で、従来のアカデミーとその附属研究所も残っていますが、ソ連時代と比べても予算規模が大きく減らされ、研究テーマに対する干渉も強くなりました。

ちなみに、科学アカデミー、大学にはURAに相当する「学術秘書(ウチョーヌィ・セクレターリ)」という役職があります。彼ら自身も研究者で、国際的な学術動向を把握しており、学者と政治、学者と社会を繋ぎ合う役割を担っています。私も親しくしている人がいますが、政官学の間を行き来し、彼らの能力は非常に高いと感じます。

――2022年2月のロシアによるウクライナ侵攻以降、先生の周囲にも影響はありましたか。

溝端教授 知人のロシア人研究者の中でも、ロシアにいられなくなって国外に逃れた人と、自らの意思でロシアに残る人が半々ぐらいの印象です。若手の研究者ほど海外に行きたがる傾向が強いように思います。

――ロシアに残る研究者は、どのような思いを抱いているとお考えでしょうか。

溝端教授 一番大きいのは後継者の育成だと思います。やはり、ある地域の経済を論じたり教えたりする際に、その地域から離れて研究することが本当に可能なのか、ということが問題になると思います。こうした状況下においても、後継者をいかに育成して、自分の研究をどうやって大きくしていくか、というところに強い関心を持っているのではないでしょうか。その一方で、ロシアから出ていく研究者が無責任というわけでもなく、それぞれの研究に対する考え方の違い、研究上の立場の違いが影響しているのだと思います。

先端政策分析研究センター(CAPS)

――溝端先生は先端政策分析研究センター(CAPS)のセンター長もされています。2005年に設立されたとのことですが、どのような経緯で設立されたのでしょうか。

溝端教授 元々、京都大学経済研究所は(日本では珍しく)経済理論に特化しており、理論研究で世界と対等に渡り合える研究所となることを目指して1962年に設立されました。実証ベースの研究となると、どうしても日本国内の事象だけを扱いがちになりますが、理論ベースなら世界を相手にできるわけです。

その一方で、経済研究所は創立以来関西の財界の後押しを受けて設立されたこともあり、政策への貢献も期待されていました。実際、創設時から経済政策に直接かかわる先生方もいました。ですが、東京と離れた京都で、どうしても理論と政策の両輪がなかなか上手く回ってはいませんでした。そこで当時経済研究所長であった佐和隆光先生が財務省などと相談して、各省庁から官僚の方を2~3年間の任期で受け入れ、トップレベルの経済学と政策研究をミックスして京都から政策提言する、日本の政策研究の質を高めるという構想の下、2005年にセンターが設立され、さらには「エビデンスに基づく政策立案(EBPM)」も研究の柱に位置付けました。学位取得を含め研究所で学ぶとともに、大学院生・若手研究者に実務教育を行うという双方向型の教育体制も出来上がりました。

経済理論を「入口」とするならば、政策は「出口」だと思います。経済研究所としてはこの「出口」の部分をカバーしたい、一方で政策を策定する省庁としても、日本の官僚で博士号を持っている人はほとんどいませんでしたから、世界に通用する経済政策の立案(立案者の養成)には「入口」となる理論面の強化が必要だ、ということで双方の利害が完全に一致したのだと思います。

――CAPSが出来てから、どのような変化や成果がありましたか。

溝端教授 経済研究所の中で言えば、個々の研究者が少しは「出口」となる政策を意識するようになったことだと思います。また、CAPSでアカデミックな理論を身につけた官僚の方々が、それぞれの政策の現場に戻った後、理論を実際の政策に応用していくことができれば、社会にとっても大きな貢献になると考えています。理論を実際の政策に反映させることは決して容易ではありませんが、CAPSでの研究により動学的財政コントロールという考え方を財政政策に入れるなど、成果も出ています。 さらに言えば、普段霞が関で働いておられる官僚の皆さんは、どうしても省庁ごとの「縦割り」意識になりがちですが、ここでは同じCAPSに所属する仲間として、省庁の枠を超えて政策研究に好きなだけ打ち込むことができます。この経験は、霞が関に戻られた後も役立つのではないでしょうか。

――CAPSでは実社会と深くリンクする研究プロジェクトも数多く行われていますが、印象に残っているものはありますか。

溝端教授 一番大きいのは「ながはまプロジェクト」(注:末尾にリンクあり)だと思います。これは医学研究科が長浜市で行っている健診事業と連携して、健診に参加している市民を対象に、社会情報も一緒に取らせて頂いて、健康情報と社会情報を結び付けて何か新しい政策提言ができないか、ということを考えるものです。もう6年ほど続いているプロジェクトで、CAPS側の担当は何名か交代しましたが、今も継続しており、少しずつ成果もでています。

――CAPSの今後の展望と課題につきお聞かせください。

溝端教授 近年、大学としての社会貢献、具体的な「アウトプット」が求められるようになり、現体制のCAPSにおいても、科学と政策の協働を進めるために地方自治体などと協力して研究成果を政策に反映するプロジェクトにも取り組んでおり、「社会実装」をアウトプットの指標に取り入れました。むずかしいですが、挑戦的な課題と思っています。

その一方で、「何がCAPSの先生方にとって最もプラスなのか」を考えた際に、せっかく京大に来て頂くわけですから、京大らしい自由な雰囲気の中で研究をして頂きたいとも思っています。「経済理論と結びつけた政策研究」「エビデンスに基づく政策立案(EBPM)と社会実装」の2つを宿題としつつも、あとは自由にどうぞ、という形で。研究ですから、当然様々な試行錯誤があって、失敗することもあるでしょうが、そうした失敗も含めて「経験」として持ち帰ってもらいたい。CAPSにとって最大のアウトプットは「人」だと考えています。

それゆえ、「社会実装」のための取り組みが重要であることは言うまでもありませんが、京大らしい、自由な研究をする余地とのバランスを探っていくことが、今後の課題であり、それが官の側から学(京大)に対する理解者を増やす決め手になると思います。

URAより

「ロシア(ソ連)をいかに理解するか」という問いに対して、溝端名誉教授は「日本との比較こそ有効」と答える一方で、経済学の研究としての「比較」の難しさ、ソ連という研究対象ならではの難しさについても語っていただきました。このことは経済学のみならず、「日本にいながら/日本人として、外国のことを考える」すべての学問にとって、多くの含意があるように思われました。

後半では、長年、経済理論研究に特化して世界レベルの成果を挙げてきた経済研究所ならではの取り組みとして、CAPSに関するお話を伺いました。経済理論と政策提言という本来馴染みにくいものを結び付け、成果を出し続けるCAPSの今後の取り組みにも注目です。

(構成:横江 智哉)

溝端佐登史 
経済研究所 名誉教授・特任教授
先端政策分析研究センター(CAPS)センター長

大阪外国語大学外国語学部第一部ロシア語学科卒業、京都大学大学院経済学研究科博士後期課程単位取得退学後、岐阜経済大学講師、京都大学経済研究所助教授・教授を経て、2012~2020年同所長。2021年、同名誉教授。専門はソ連・ロシア経済、経済政策論、比較経済体制論。

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