カク ミンソク(郭旻錫) 人間・環境学研究科 講師
昨今の哲学研究では、哲学が西洋に固有のものと考えられていたこれまでの態度を改め、非西洋的な思想伝統をも哲学に含めようとする潮流が盛んになっています。この、「世界哲学」とよばれる潮流のなかで、注目されているものの一つが、京都学派の哲学です。今回は京都学派の哲学を軸に、近代の東アジアという思想世界を研究しているカクミンソク先生を訪問し、研究内容と東アジア思想の可能性、京都学派に関する研究の将来について伺いました。
カク ミンソク(郭旻錫)
人間・環境学研究科 講師
日韓の近代思想における、京都学派の位置
――どのような研究をされているのですか。
カク講師 近代国民国家について関心を持ち、近代における日本哲学を軸として、東アジアの思想界を研究しています。主な研究内容は、京都学派の哲学者の社会思想や、韓国哲学界における京都学派の哲学受容などを参照することで、近代国民国家を東アジアから問い直すことです。
――カク先生は、京都学派の思想家である田辺元について、いくつもの論考を発表しておられます。とくに田辺に注目されたことと近代国民国家への関心とは、どのように結びつくのでしょうか。
カク講師 たしかに京都学派の研究というと、これまでは西田幾多郎中心でした。彼の場所の思想や述語論理、禅の思想などに日本の独自性を読み取ろうという研究は、日本でも西洋でも多数あります。しかしながらそれらの研究は、西洋世界にイメージされた日本像を西田から読み取ろうとする傾向があり、一種のオリエンタリズムとしてはたらく可能性もありえます。私はこのような日本哲学研究の傾向に、若干の違和感をもってきました。
私が田辺元に注目したのは、彼が「民族」そのものを思考しようとし、国家と個人の間にある「種」の論理を立てるという社会的な側面を持つためです。従来の京都学派についての研究では、先ほど挙げた西田の思想や、ほかにも西谷啓治の宗教哲学などの抽象的な思想が特に注目されてきましたが、その一方で京都学派の思想家たちは、田辺のように社会構造について思索をめぐらし、社会に対してもコミットしようとする姿勢を持っていました。京都学派についての研究は、後者を捨象してきたことで、その可能性の半分が未開拓のままになっていると考えています。むしろ、このような未開拓の領域にこそ、日本というものを理解する鍵があると考え、田辺を研究しています。
近代のアジアを知る鍵としての日本
――お話を伺っていて、日本とは何かということがカク先生の研究テーマの一つになっているように思いました。日本の思想を研究されるようになったきっかけをお聞かせください。
カク講師 子供のころから中国映画を見たり、父から『論語』を習ったりして、東アジアの文化に親しんでいました。ちょうどそのころは、中国のGDPが日本のそれを上回ったことにより、韓国で中国ブームがおきていた時期で、アメリカに代わる世界史のパラダイムを中国が作る、というような言説が盛んに発信されていました。そこで東アジアの中心的な文明である中国について学ぶことで、アジアから今後の世界のあり方を考えてゆこうと思い、高麗大学に進学しました。
高麗大学では古典を読むトレーニングを積むことができましたが、そこから出て自由に研究ができる様子ではありませんでした。また、中国哲学を学ぶためには西洋哲学を学ばなければならないということも知ることになりました。なぜなら、アジアに世界の未来を考えるヒントがあるとしても、現在のアジアは近代に西洋から深い影響を受けたアジアであるからです。同時に、日本の近代化を踏まえないではアジアにおける近代を理解することができませんから、近代というものがアジアに与えたインパクトにも関心を持ち、その結果として日本にも興味が及ぶようになりました。
このようなことを考えていたころ、交換留学制度によって京大で学ぶ機会があり、のちに指導教員になる小倉紀蔵先生(人間・環境学研究科 教授)と知り合いました。大学院から小倉教授のもとで学ぶことになったとき、学術分野にとらわれず自分の関心のままに研究するためには膨大な読書が必要だが、そうしさえするなら何をしても良い、と言っていただいたおかげで、自由に研究をすることができました。
日本にとって具象化されたアジアとしての韓国、その視点から考え直すアジアの近代
カク講師 東アジアの研究の中でも、韓国と日本の比較に焦点を合わせている点ですね。もちろん、中国についての研究は後の課題として意識し続けてはいますが。日本との比較において韓国が重要なのは、それらが1910年から1945年まで同一の国家であることを経験した、二つの集団だという特異な歴史があることによります。ところが周知のとおり、1945年から2000年代まで、同一国家を経験したという歴史からは目が背けられ、日本においては韓国が、韓国においては日本がまっとうに向き合われることはありませんでした。しかし、このような状況はここ20年で変わりつつあります。たとえば、韓国の学界でもかつては植民地時代の研究は一定の前提の上に成り立っていました。それも2010年代になってから、それを冷静に考えられるような状況になってきました。このような状況になっている現在は、日韓比較研究が新しいチャレンジをするべき時代だと考えています。
また日本が東アジアと向き合おうとするとき、韓国は重要な存在になるとも考えています。日本にとって、最初に立ち現れる具体的な東アジアの国は韓国ですから。もちろん中国も重要な国ではありますが、大きく多様でありすぎるため、その集合体を一括して扱うには抽象的に議論しなければなりません。これに対し、韓国は具体的な姿をともなって論じることができる、日本から最も近い東アジアの国だと思います。
――東アジアの近現代を考えるとき、韓国という視点を加えることで何が起きるのでしょうか。
カク講師 日本には分厚い中国学の蓄積があるのは確かです。しかし、東アジアを考えるときに日中比較に終始してきた感が否めません。ここに韓国、あるいはベトナムもそうかもしれませんが、そのような第三の視点を加えることで、研究に新しい展開をもたらすことができる可能性があります。たとえば、戦後日本の思想家である丸山眞男と竹内好とは、東アジアの近代化について対極的な主張をしていたことで知られています。しかしながら二人は日中という地平で東アジアを捉えていた点で共通しており、じつは表裏一体の主張を持っていたとみなせます。このような視点に捉われないためには、日中の二極を離れた第三の立場が必要になります。特に韓国の場合は、先ほど述べたように、日本との間に一筋縄ではゆかない歴史がありますので、それを絡めて考えることは思想の世界に一石を投じることになるでしょう。
ただし、このように国家間での文化比較をおこなう場合には、研究者は自己の視点について自覚的で慎重であることが求められるでしょう。というのも、日中韓の比較は近代国民国家という枠組みが前提にあり、その枠組みが認識のフィルターとして機能しているからです。認識のフィルターがかかっていることに無自覚なまま、近代の国民国家の枠組みで世界をとらえ、その国の名を冠した民族を設定するという考え方は、これまで文化人類学などから文化本質主義として批判されてきました。
これからの京都大学とは?
――これからの京都大学に希望することを教えてください。
カク講師 京都学派の哲学には、京都大学の外で関心が高まっています。たとえば最近の韓国で民間から大学を新設しようとする動きがあります。その準備シンポジウムをインドネシアで開催したとき、京都学派についての質問が出たそうです。この質問を重大なものとみなした大学新設の代表者が、京都を来訪したことがありました。また現在、東京大学東アジア芸文書院に招へいされているユク・ホイという哲学者が、先日京大で講演をしましたが、彼も京都学派を参照して新しい哲学を構築しようとしています。このほかにも東大の朝倉友海氏が著書『「東アジアに哲学はない」のか』(岩波書店、2014年)において、京都学派と中国の現代新儒家を合わせて東アジアの哲学の流れとして語ろうとしたこともあります。また求真会という田辺元記念会があるのですが、その会長は中国の中山大学に所属する廖欽彬氏でして、彼は令和5年度から京大人文科学研究所において、福家崇洋准教授を受け入れ所員として「中日の近代哲学・思想の交差とその実践」という共同研究を開始しました。
もちろん京大でも、京都学派の系譜を受け継ぐ方々が世界的な研究活動をしておられます。ただ、先ほど述べました通り、従来の京都学派研究は西田幾多郎を中心とする傾向があり、広く京都学派全体を扱おうとする立場の研究者は多くありませんでした。また京都学派の新しい価値を海外に発信する、あるいは京都学派を使って新しい研究をするという動きも、活発ではなかったように思います。
このような状況ですから、京大でこそ京都学派の哲学についての研究がますます盛んになり、そこからの新しい思想的展開が起こるとよいですね。そのための第一歩として、学内で京都学派を専門的な研究対象としていなくとも、自身の研究の上でそれを避けては通れないような、京都学派に潜在的な関心を持つ研究者をネットワーキングできれば、と考えています。たとえば教育学部には、木村素衛という京都学派の伝統を受けた学者がいました。また、じつは、文学研究科日本哲学史専修のフェルナンド・ウィルツ助教が2022年度に分野横断プラットフォーム構築事業の助成によって「Everydayness Research Group」というプロジェクトを行ったのですが、私を含めこの流れに集まった研究者で、アジアからの新たな思想的発信を考えているところです。
URAより
インタビューを経て、カク講師が同時代的な社会問題との関係を捨象せずに哲学を理解し、東アジアから世界に向け新たな思想を発信してゆくことを志向している姿に、強く印象付けられました。かつての歴史への反省が必要であることは言うまでありませんが、カク講師が、現時点においてはじめて可能になりつつある過去の歴史への冷静な観察をもとに、そこから京都学派の哲学を先に進めようとしていることによって、新たな研究の可能性がひらけるかもしれません。また日中以外の視点を用いることで、従来日本でおこなわれてきた東アジア理解を捉えなおそうとする点にも、新しさを感じました。要するにカク講師の研究は、賛美あるいは糾弾という文脈を離れて近現代の東アジアの歴史を注視し、その中から京都学派の哲学の価値と、それに依拠する東アジア哲学を構築しようとするものだと言えるでしょう。その研究によって、京都学派の哲学にどのような新しい価値が見いだされるのか、期待したいと思います。
(構成:一色 大悟)