Biographies of Kyoto University's Personnel
京大人間図鑑
Vol.13

槇田盤 フィールド科学教育研究センター 技術専門職員

書類倉庫の片隅に眠っていた古いアルバム。そこには白黒の航空写真197枚が残されていた。写っているのは一体、どこなのか?誰が、何のために撮影したのか?――その秘密を突き止めたのは凄腕の探偵……ではなく、京都大学フィールド科学教育研究センター技術職員の槇田盤さん。古い資料のデジタルアーカイブ化に取り組んでいる槇田さんに、倉庫で見つけた資料から分かったこと、研究資源のアーカイブ化の意義などについてお話を聞きました。

槇田盤
フィールド科学教育研究センター 技術専門職員

ガラス乾板写真の謎に挑む

―― フィールド科学教育研究センター(以下、フィールド研)の技術職員とは、どんなお仕事をされている方々なのでしょうか

槇田 フィールド研は、京都府の芦生研究林(南丹市)や上賀茂試験地(京都市北区)、舞鶴水産実験所(舞鶴市)など、全国10カ所に施設を持つ部局で、敷地面積では京大全体の9割を抱えています。フィールド研の教職員約100人のうち、技術職員は38人。各施設で森林の整備や船舶の操縦、水族館の維持管理などに携わっています。私自身は2008(平成20)年から情報系の技術職員として吉田キャンパスに常駐し、ウェブページの運用や印刷物の編集などを担当しています。

―― 通常業務とは別に、古い資料のデジタルアーカイブ化にも取り組んでいるそうですね

槇田 古い書類や段ボール箱がたくさんある地下の書類倉庫を掃除しているときに、ガラス乾板の入った小箱がいくつもあるのを見つけました。ガラス乾板っていうのは、感光する乳化剤を塗った写真撮影用のガラス板のことで、ロール状の銀塩フィルムが普及する前、昭和30年ごろまで使われていたものです。

倉庫に保管されていたガラス乾板

―― 「ガラス乾板」というものをご存知だったんですね

槇田 前職で映像や産業技術史に関する博物館の仕事もしていたので、知識として知っていましたが、実際に手にしたのは初めてでした。倉庫には、ガラス乾板写真800枚弱のほか、紙焼き写真も1200枚ほどありました。何が写っているのか、ずっと気になっていたんですが、勝手に手をつける訳にもいかない。安藤信准教授に尋ねてみたところ、『京都大学農学部70年史』(1993年刊)などにむけて当時の先生方が整理した後に所在が分からなくなっていた、旧農学研究科附属演習林関連の写真だと分かりました。そこで、京都大学研究資源アーカイブの「研究資源化プロジェクト」に応募し、2012年度から資料のデジタル化に着手しました。関連情報が残されていないガラス乾板も多く、他の写真や当時の研究論文などから、撮影場所や年代を特定する作業を進めています。

何かのプレパラートらしきものが写っているガラス乾板

―― 樺太演習林に関して、非常に貴重な資料を発見されたそうですね

槇田 かつての京都帝国大学は、台湾、朝鮮半島、樺太に「外地演習林」を持っていました。1923(大正12)年に農学部が設置されると、演習林は研究や学生実習の場としても活用されるようになりました。

倉庫に保存されていた『航空実体写真帖 京都帝国大学樺太演習林』という背表紙のアルバム4冊に、森林を上空から撮影した写真が197枚あったんです。撮影目的といった情報や関連資料がなかったんですが、あるとき古い日本林學會誌に「航空寫眞に依る樺太の森林調査に就て」という発表を見つけたことから、これらの写真は1930(昭和5)年に樺太庁が森林調査のために撮ったものだと判明しました。

―― 昭和初期の航空写真ですか。誰がどんなふうに撮ったのでしょう?

槇田 アメリカのフェアチャイルドK8写真機で、24×18センチのフィルム1コマに、焦点距離25cmのレンズを使って、高度3750mから撮影されています。これは縮尺が1万5千分の1となるようにするためです。そんな高度な飛行を担当したのは、陸軍飛行学校の飛行機とパイロットです。樺太庁の依頼で、下志津陸軍飛行学校の複翼偵察機が撮影していました。

4冊のアルバムにあった197枚の写真は、このフィルム1コマを原寸大で紙焼きしたものでした。この年の樺太演習林の手書き資料の中に、撮影に協力する代わりに譲り受けた写真であることが分かってきました。撮影した航空写真を集成するときに必要な目印として、演習林の職員が地上で白布を広げていたようです。

アルバム4冊に残された197枚の写真

航空写真をもとに樺太演習林の地図が作られていた!

―― 上空から撮影した森林の写真は、どんなことに使われたのでしょうか?

槇田 このアルバムとは別の場所にあった、2万分の1の樺太演習林の大きな手書きの地図を広げてみると、小さく「航空写真ニヨリ昭和八年六月製図」と書いてある。地図が入っていた筒には、小さな写真をモザイク状に貼り合わせた、地図とほぼ同じ大きさの航空写真が入っていました。 また、デジタル化の準備のために地下倉庫にあった「樺太演習林航空写真原板」と書かれた包みを開けてみると、四ツ切サイズのガラス乾板写真が17枚、入っていました。この写真は、航空写真そのものではなく、航空写真を小さく切り張りしてつなぎ合わせたものを接写したものでした。 これらを総合して考えると、樺太庁からもらった航空写真を張り合わせて17分割で撮影し、少し小さくプリントした後につなぎ合わせて1枚にまとめ、それをもとに樺太演習林の地図を作った、ということになります。

手書きの地図(左)と航空写真を貼り合わせたもの(右)

―― 航空写真をつなぎあわせ、さらにそこから地図を作るなんて、かなりの手間ですね

槇田 旧演習林の図書室に『米國空中寫眞地圖製作法』という本が残っています。これは、国土地理院の前身である陸地測量部が米国の文献を翻訳した手書き資料で、これを参考にしたんでしょうね。それにしても、図化機なしでの地図作りは難しかったと思います。作られた地図に等高線はありませんが、河川が細かく記されており、集水域によって分けられた林班境界線なども示されています。演習林の管理には十分役に立つ地図だったと思いますよ。

旧演習林の図書室に残されていた『米國空中寫眞地圖製作法』

―― それにしても、戦前の樺太の航空写真が今も京大に残っているなんて、驚きです

槇田 のちに航空写真は軍事機密扱いとなり、樺太庁が管理していたこの写真の原本であるフィルムの所在は現在、分かっていません。敗戦の混乱期にほかの機密書類と一緒に焼却処分されたか、それとも進駐してきたソ連軍に接収されたのか…。そのごく一部の写真だけが、誰にも知られぬまま京大に残されたというわけです。

―― そう考えると、この197枚はかなり貴重な写真といえますね

槇田 この時期に陸軍飛行学校が撮影した測量用航空写真がセットで現存する事例は、他に見つかっていないそうです。当時の飛行や撮影の技術水準が分かる貴重な資料になると思います。また、撮影された地域は、戦時中から露天掘りの炭鉱として開発され、森林はほとんど残っていないので、当時の樺太の自然環境植生を記録する資料としても活用できるのではないでしょうか。

―― 台湾演習林の写真にも意外なものがあったそうですが

槇田 『規那樹造林 播種より剥皮まで』と題したアルバムです。これは、マラリア治療薬の原料となるキナ(規那)を台湾演習林で栽培する様子の写真で、アルバム自体が桐箱に収められていました。表紙には「賜天覧」とありますが、本当に天皇が見たものかどうかは、分かっていませんでした。 経緯を調べると、1940(昭和15)年、天皇の京都行幸の折に、京都帝国大学の研究資料が京都御所で展示されたことが分かりました。演習林からはキナ栽培に関する資料が出品されていて、大学文書館の書類を確認したところ、記録写真にこのアルバムが写っていました。宮内庁の要請で、このときの展示品は、航空燃料や合成石油など、すべて軍事に利用される研究に限られていました。キナの栽培も南方への軍事侵攻に不可欠なものでしたからね。

表紙に「賜展覧」とあり、桐箱に収められていたアルバム
アルバムには、キナ栽培の様子の写真が数多く残されていた

どんな研究資料もお宝になる可能性を秘めている

―― 倉庫には16ミリフィルムもあったそうですね

槇田 京大の北海道演習林長だった故・吉村健次郎助教授が、1970年代から撮影した29巻がありました。北海道の知床半島を6年がかりで縦走した映像で、道路建設などによって自然破壊が進む前の植生が記録されています。そのほか、クマが木の皮を剥ぐ被害を防ぐための生態研究や、今西錦司先生の登山に随行する様子などが収められていました。吉村先生は1989(平成元)年に62歳で亡くなられたため、研究室に残された資料の一部を関係者が倉庫に保管したものだと思います。

「今西先生 知床の山を行く June 19〜23 1980 吉村健次郎 撮」のラベルがあった16ミリフィルム

―― 撮影は40年くらい前ですが、映像はきれいですね

槇田 研究資源アーカイブ担当の先生にご相談したところ、ガラス乾板は古くても割れない限り失われることはないけれど、フィルムは劣化がどんどん進むから、できるだけ早くデジタル化したほうがいいということでした。映写装置や技術が失われつつあるので、早めに着手してよかったです。手軽に見られるようになったことも、うれしいですね。新たに発見されたフィルムも、順次デジタル化できればと考えています。

―― こうして研究資料を残すことに、どんな意義があるのでしょうか

槇田 先生方の膨大な研究作業において、論文に活用できる成果はごくわずかだと思うんです。でも、論文にならなかった研究のパーツでも、将来誰かが比較対象として活用するかもしれないし、今はない分析方法で新たなデータが抽出できるかもしれない。それに、別の人が別の目線で見たら、非常に意味があるというものが、実はたくさんあると思うんですよね。意外なお宝があるかもしれない。

STAP細胞の騒動以降、不正対策のため研究データを10年間保存することになりましたが、データを義務的に残すのではなく、多様な研究へのシーズになる可能性があるものとして、関連情報と一緒にうまく残せる仕組みができればいいですよね。そうしたら、私のように探偵ごっこみたいなことをしなくてもすみますから(笑)。それに、残されたデータによって可能性が広がり、京大の評価が将来、さらに高まるかもしれません。

私は研究者ではありませんが、写真撮影の手段がガラス乾板がフィルムになり、そしてデジタルカメラへと変わったといった、技術の移り変わりを知る世代としてできることがあるかもしれません。倉庫で眠っていたものをきちんと後世に残すことで、研究にまい進した学者の熱意や志を伝えることができれば、とも思っています。

出番を待つ、数多くの「お宝」資料

槇田さんにとっての「京大の研究力」とは?

技術職員としては、優秀な職員がいるから京大は研究力があるんだと、言ってもらわなければなりません(笑)。各地の研究林や実験所のみならず、構内の実験装置や分析機器などの横で多様なニーズに応える技術職員の存在を、もっと積極的に評価してもらいたいですね。

民間の小さなシンクタンクに勤めた経験者としては、基本的な人件費と研究室、実験設備などが揃い、幅広い分野の研究者が集まっているというだけでも、恵まれた環境だと思います。大学そのもののネームバリューも大きな強みですが、歴史や格式よりも、おもしろいこと、新しいことを自由に追求し、独自性が尊ばれる気風が、研究の力になっていることは間違いありません。成果を急ぐのではなく、研究過程でアイディアを温め、異分野や学外とも交流し、人を育て、すぐには役立たないことにも取り組める環境が、結果として研究にもフィードバックされていると思います。

個人的な意見ですが、京大の優秀な研究者には楽器を演奏する方が多いような気がします。学生時代から課外活動などで音楽を聴き、演奏を楽しむ能力を鍛えることが、研究活動に限らず、他者とも協調した創造的な活動にプラスになっているのではないでしょうか。将来的には、京大に音楽学部ができたらいいのにと夢想しています。

貴重な資料をたくさん紹介してくださった槇田さん
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