Biographies of Kyoto University's Personnel
京大人間図鑑
Vol.23

篠原雅武 総合⽣存学館(思修館) 特定准教授

篠原 雅武
総合⽣存学館(思修館) 特定准教授

世界の再構築のための思考と⾔語

脆さの感覚、壊れやすさの感覚(sense of fragility)、つまり「⾃分の⾝体が直接つらなる『地⾯についた世界』そのものが潜在的に不安定性を抱え込んでいる」(p.14)ということ。

⽇本の建築家には建築だけでなく、周辺環境についても考えながら実践する⼈が多いが、その背景には震災をきっかけにより強く認識されたこうした感覚があるのではないか。建築を勉強するフランス⼈学⽣との対話を、篠原先⽣は『「⼈間以後」の哲学』(講談社選書メチエ、2020年)のプロローグで紹介している。

この脆さ、壊れやすさの感覚、普段気にもとめていなかった、⾃分の⽣活を⽀えていたものが崩れてしまい、荒々しい脅威に直接さらされるような感覚、不安。それはコロナ禍によって、また世界中で次々に起こる⾃然災害についてニュースで知るたびに、ますます強くなってきているように思われる。こういった感覚だけではなく、わたしたちは知識としても、地球温暖化等の気候変動や環境破壊が深刻化していることを知っている。

80億⼈に達した⼈類が⽣産してきたプラスチックなどの⼈⼯物は⽣物全体の量を上回り、⼈類の活動は地層に痕跡を刻み始めた。⼈類は増えすぎただけではなく、地球を変えすぎた。その時期を地質年代として記録すべきだという主張から、「⼈新世(じんしんせい/アントロポセン)」をめぐる世界的な議論が続いている。

これから先も⼈間が地球上で⽣きていくためにはどうすればいいか。現在たまたま享受している平穏に感謝し、⾃分でできる環境対策を実践していけばいいのだろうか?それではあまりにも限られていないか。

篠原先⽣は上述の著書においてこう書いている。

「従来の世界像の崩壊を認め、変化する現実においてなおも⽣きていくことの⽀えになりうるものとして世界を再構築するのにふさわしい⼟台、または設定のための原理を問い、理詰めで⾔語化することである̶̶これが現代の哲学の課題であるはずだ」(p.63)
「無意味で過剰なイメージと情報が世の表層を覆い尽くすなかで、主体性の喪失と思考停⽌、想像⼒の⽋如を特質とする集団的没個体状況が優勢になっていく状況から逃れ、思考し、⾔葉を発すること」(p.244)

何をどう考えていけばいいのか。その思想的な基盤を構築するために、これまでの哲学の⽔脈に、⼀つひとつ丹念に光をあてなおし、深い読解をつうじて、⾃⾝の精緻な思考を紡いでいるのが彼の著作だ。わかった気になるような喩えは排され、本質的な問い直しと哲学的な理論化に⾄るための⾔葉が丁寧に展開されている。

直接お話を聞きたいと思い、研究室を訪ねた。

⼈新世の⼈間の条件

「僕が⻑らく取り組んでいるのは、⼈間が⽣存していくための条件についての哲学的な考察で、20世紀半ば以降の実存主義の主題でもあるのですが、気候変動やエコロ ジカル・クライシスと⾔われる時代において、この条件が、じつは安定的でなく、不安定的になっているのだとしたら、そこで⽣きていくことになる⼈間は本当のところどうなっているのか、というようなことを考えています。⼈間は⼈間が作ったものにより条件づけられているのですが、それでも、その外にある⾃然としかいいようのないものに影響を受けてしまい、そこから⾃由になることができなくなっています。そういうことが⾒えてきたのにもかかわらず、現代社会を形づくる近代的価値観では、⼈間と⾃然は分けられることが前提になっています。⼈間は⾃然をコントロールできるし、そこから離れて⽣きることもできる。その設定のもとで⼈間の社会は成り⽴っている。だけど実際は、なかなかそうはいかない。

たとえば、ドイツ出⾝の政治哲学者・思想家であるハンナ・アーレント(1906-1975)は、原⼦爆弾の開発で⼈間の⽣存の条件が変わってしまったと⾔っています。核分裂など、それまでの常識では捉え難いことが科学で起こってしまったわけですが、この現象から出てきた技術や思考が、⼈間の条件を規定するようになった。つまり⼈為的な、アーティフィシャルなものが⼈間の存在条件を変えてしまうということなのですが、その⼈為の領域を限界まで突き進めていったら、⼈為ではコントロールできない現象が出てくるようになった。地球のあり⽅が不安定化し、そこに住む⼈間の場所も不安定化した。インド出⾝の歴史学・思想史研究者のディペッシュ・チャクラバルティは『アンインハビタブル(uninhabitable)』という⾔葉を使って、かつては住むことができた場所にだんだんと住めなくなっていく状況のなか、それでもそこで住んでいくことの条件を考えるという話をしています。また、『惑星』という、グローバルとは別の次元に着⽬し、⼈間の尺度を超えた領域のなかに⼈間もまたその⼀部分として放り込まれていくという認識を⽰し、そこで共存の形式を発案することができるかどうかが今の⼈間に問われていると⾔っています。これが多分、現在の⼈間の条件をめぐる究極の問いなのでしょうし、僕が関わっている⼈新世の⼈⽂学の最先端の問いだと思います」

⼈新世の哲学、⼈新世の⼈⽂学は、上述の地質学をはじめとした⾃然科学分野の研究成果や議論に対し、⽂系の研究者や作家が反応し、⼈間の⽣存条件や⼈間と⾃然の関係など、⼈⽂学的な問題意識から議論や考察を深めていくというかたちで進んでいる(『⼈新世の哲学』⼈⽂書院、2018年、p.16参照)。

篠原先⽣はこの⼈新世の哲学に関連する著作や論考、翻訳を多数⼿がけてきた。近年は英語で執筆し、国際的な最先端の議論に加わっている。⾮⻄洋の視点を持ちながらも英語で書くことの⼿応えを感じている。

彼の研究はまた、学問の世界に閉じていない。写真、建築、演劇など、芸術の世界と接続し、思考を深め、⽅向性を⾒出している。⼈間の⽣活を⽀える基盤の揺らぎ、定まらなさを考えるとき、アーティストたちが先んじて感受し迫ろうとしている、⾔語になる前の領域が鍵になると考えているからだ。ただその領域を、学問的に筋道⽴てて⾔語化するのは難しいという。それでもそういったアーティストたちとの交流があり、いくつかのエピソードを聞くと、それは単に異分野同⼠が協⼒する(場合によってはそれが⽬的化することもある)ということではなく、あるいはアカデミアからアートを評論する、という図式化された関係でもないことがわかる。芸術と哲学、それぞれが追求している思考や表現に対して、フラットに影響を与え合っている。

近代化の先へ、哲学的理論化

先⽣がいま話してみたいのはどんな⼈か、尋ねてみた。

「数学や物理をやっている⼈は普段何をやっているのか、聞いてみたいですね。あるアイディアをどうやって明確化するのか。僕がやろうとしている哲学的な理論化も、⽇本ではあまり⾏われていないので、⾃分が⾔っていることが本当にあっているのか、間違っているのか、⽇本語だけで書く限り、⾃分ではわからない。だから英語のジャーナルに出して査読を受けて掲載されるよう頑張る、という地道な過程を今は⼤切にしています。

最近、南部 陽⼀郎についての本を読んでいて、いろいろ気づかされたのですが、たとえば物理では、ある素粒⼦がありそうだけれど、本当にあるのか、あることを証明するにはどうやってロジックを組み⽴てるか、ということが問われているらしいのです。ありそうだけれどあるのかよくわからないものに関⼼を向け、その存在について理詰めで説明するという姿勢はどことなく、⾃分のスタイルと似ているように思いました。というのも、僕が考えているのは、⼈間は近代化の中で⼈間と⾃然の⼆元論で世界をコントロールしてきたが、コントロールできない残余のようにあったものが前景化してきたときに、それとどうやって新しく向き合うのかということだからです。これをいったいどうやって理論化したらいいのか、結構⼤変なのですが、南部 陽⼀郎の本を読んでいたら、なんだかできそうな気がしてきました」

篠原先⽣は精緻な著作の「裏側」を語ってくれた。彼がやろうとしていることは、これまでの⼈⽂学の思考の枠を設定しなおすというとても⼤きな試みだ。だからこそその著作のページを開くたび、新たな気づきを得るとともに、わからなさもまた深くなるのだろう。

(構成:藤川 ⼆葉)

篠原 雅武
総合⽣存学館(思修館) 特定准教授

京都⼤学総合⼈間学部卒業、同⼤学⼤学院⼈間・環境学研究科博⼠課程修了。博⼠(⼈間・環境学)。専⾨は哲学、環境⼈⽂学。著書に『公共空間の政治理論』『⼈新世の哲学』(いずれも⼈⽂書院)、『空間のために』『全−⽣活論』『複数性のエコロ ジー』(いずれも以⽂社)、『⽣きられたニュータウン』(⻘⼟社)、『「⼈間以後」の哲学』(講談社選書メチエ)。訳書に『社会の新たな哲学』(マヌエル・デラ ンダ著、⼈⽂書院)、『⾃然なきエコロジー』(ティモシー・モートン著、以⽂社) などがある。
令和5年度の京都⼤学における篠原先⽣の授業「⼈新世の哲学」は、京都⼤学の全ての⼤学院⽣に開かれている。

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