Biographies of Kyoto University's Personnel
京大人間図鑑
Vol.25

堀口大樹 人間・環境学研究科 准教授

2022年2月24日に始まったロシアによるウクライナ侵攻は、今なお国際社会全体を揺るがし続けています。かつての旧ソ連・東欧諸国も今や(一部を除き)EU・NATOに加盟し、対ロシアにおける「西側」の最前線となりました。
ヨーロッパ北東部、バルト海沿岸に「バルト三国」と呼ばれる国々(エストニア・ラトヴィア・リトアニア)があります。これらの国々はソ連による占領を受けたことから、国内に相当数の「ロシア語系住民」が今なお居住しています。独立後の各国政府は民族主義的な言語政策を採り、基幹民族の言語(エストニア語/ラトヴィア語/リトアニア語)を唯一の国家語とし、市民権の取得にあたって国家語の試験を課していることから、「ロシア語系住民」との間に摩擦が生じているとの指摘もあります。
このような言語をめぐる社会的状況について研究されており、バルト三国、特にラトヴィアの言語状況に詳しい堀口大樹准教授にお話を伺いました。

堀口 大樹
人間・環境学研究科 准教授

ロシア・東欧地域の地図。ラトヴィアはバルト三国の真ん中に位置する

歌と踊りの祭典

――7月の上旬にラトヴィアに行ってこられたそうですが。

堀口准教授 5年に1度開催される「歌と踊りの祭典」に行ってきました。私自身、日本で唯一のラトヴィア語曲を専門とした、日本人のみで構成される「ガイスマ」(ラトヴィア語で「光」という意味)という合唱団に参加していて、実際に祭典で現地の人々に混ざり合唱をしてきました。 この「歌と踊りの祭典」はラトヴィアが国を挙げて開催しているもので、大統領も参加します。野外ステージで13,000人もの人が集まって合唱する姿は圧巻です。

また、ラトヴィアの北隣に位置するエストニア、南隣のリトアニアといった、所謂「バルト三国」はどの国も合唱が盛んな国として知られています。ソ連末期に彼らは歌や音楽を通じて体制に反対するデモを行い、1991年に独立を回復しました。この一連のプロセスは「歌う革命」と呼ばれています。

――どうして、ラトヴィアやバルト三国ではそんなにも合唱が盛んなのでしょうか。

堀口准教授 歴史的にこの地域はドイツ人が支配階級となっていました。19世紀にドイツ語圏で合唱が盛んになったことで、この地域にも合唱文化が持ち込まれたのです。合唱文化はドイツ人からラトヴィア人にも伝わり、今ではラトヴィア語と並んで彼らにとって重要な民族アイデンティティの一つになっています。

――ラトヴィア語の合唱曲にはどのようなものがあるのですか。

堀口准教授 民謡をベースにしたもの、愛国的な詩に曲をつけたもの、ポップスに近いものなど色々あります。学校の音楽や国語の授業でも教えられています。

日本人のみのラトヴィア語合唱団「ガイスマ」(末尾にリンクあり)、一番右が堀口准教授

日本におけるラトヴィア語のパイオニアとして

――堀口先生は日本初のラトヴィア語の教科書『ニューエクスプレス ラトヴィア語』(白水社、2013年)の著者でもありますが、先生ご自身はどのようにラトヴィア語を勉強されたのでしょうか。

堀口准教授 高校時代から英語で書かれたラトヴィア語の教科書を使って勉強した他、ラトヴィアで日本語を勉強している同世代の友人と文通を(日本語・ラトヴィア語を併記して)続けていました。また、学生時代から「日本ラトヴィア音楽協会」に所属し、ラトヴィア語で歌う活動を続けていました。日本ラトヴィア音楽協会との縁がきっかけで、東京にある駐日ラトヴィア大使館でラトヴィア語を教える機会を頂きました。大使館では7年ほど教えていたのですが、その時に自分で作った教材が基になって出来上がったのが『ニューエクスプレス ラトヴィア語』です。

ラトヴィアの文通相手からの手紙(左がラトヴィア語、右が日本語)、堀口准教授がラトヴィア語の勉強に使っていた教科書(英語)、堀口准教授が書いたラトヴィア語の入門書(日本語)。写真は上記の『ニューエクスプレス』シリーズの後継版で、最新の『ニューエクスプレス プラス』シリーズ。

――ラトヴィア語を話せる日本人はどのくらいいるのでしょうか。

堀口准教授 通訳・翻訳までこなせるレベルとなると、私を含めて2人だけです。

――非母語話者である日本人が、外国語としてラトヴィア語を研究する強みはどこにあるとお考えですか。

堀口准教授 強みとしては、母語話者にとっては当たり前すぎて気づけないポイントに気づくことができるということです。また、言語のみならず、文化面においても外国人だからこそ気づけることもあると思います。

反対に弱みとしては、母語話者ほどその言語に習熟していないので、母語話者の言語感覚が分からないこと、またラトヴィア語に関する文献はラトヴィア語で書かれたものが多いので、それを読むのに母語話者よりは時間がかかることです。

――ラトヴィア語研究の中心となるのは、やはりラトヴィアなのでしょうか。

堀口准教授 ヨーロッパやロシアにもラトヴィア語の研究者はごく少数いますが、やはりラトヴィア語研究の中心はラトヴィアです。ラトヴィア国内の大学でラトヴィア語に関する国際学会が開かれています。国際学会とはいっても、出席者のほとんどがラトヴィア国内のラトヴィア人研究者で、その中に少しだけ私のような外国人研究者が混じっている状態です。

――先生はロシア語やラトヴィア語でも積極的に論文を執筆されています。

堀口准教授 それは、自分が外国人であること、つまり母語話者ではないことにコンプレックスがあり、まずは母語話者の研究者たちに認められたい、という思いがあったからです。これまでは外国語で発表することをメインにしてきましたが、今後はもっとラトヴィアやラトヴィア語の現状を日本国内に伝えていかなければならないと考えており、日本語での発信にも力を入れたいです。

言葉と民族、言葉と社会

――ラトヴィアを始めとする「バルト三国」は所謂「旧ソ連」の中でも特にロシア語系住民に対して厳格な言語政策を採っていますが、その背景は何でしょうか。

堀口准教授 やはり、ロシア・ソ連に対する敵対意識、また民族意識が非常に強い点が挙げられると思います。ロシア革命後の1918年、バルト三国は相次いでロシア帝国から独立しました。その後20年あまり主権国家としての地位を維持し、その間に標準語の整備とともに、国民意識の醸成も進みました。しかし、第二次世界大戦勃発後の1940年、ソ連に併合されてしまいます。こうした背景もあって、彼らは自分の国が「ソ連の一部」だったとはみなしておらず、「ソ連の不当な占領」を受けたのだと考えています。

――現在のラトヴィアにおいて、ラトヴィア語はどのような存在として受け止められているのでしょうか。

堀口准教授 簡単に言えば、「交通ルール」や「運転免許」のようなものだと思います。ラトヴィアという国家に属し、その中で生活をする以上、ラトヴィア語も一種の「ルール」として身につけるべきもの、という認識です。国内に居住する「非ラトヴィア人」に対して、「ラトヴィア文化を身につけるために、ラトヴィア語を勉強しなさい」と言うよりも、「ラトヴィアに住んでいるのだから、ラトヴィア語を勉強しなさい」と言う方がスムーズと思います。

言い換えれば、ラトヴィア語を勉強するということが、ラトヴィアという国家や社会への敬意、帰属意識、愛国心を示す手段になっているとも言えます。

独立以降の30年間で、ラトヴィア語が「ラトヴィア人」という民族のものから、「ラトヴィア共和国」という国家・社会のものへと次第に変化していったのではないでしょうか。

――現地では具体的にどのような調査をするのでしょうか。

堀口准教授 以前科研費のプロジェクトで、現地のロシア語系住民に対して聞き取り調査をしたことがあります。聞く内容は、国家語(ラトヴィア語)に対してどう思うか、国家語を勉強する上での苦労、母語と国家語をどの程度混ぜるか、「ロシア(語)系」と呼ばれることについてどう思うか、ロシア(連邦)のテレビ放送を見るか、ロシア(連邦)のことをどう思うか等、様々です。

興味深いのは、地域や職種によってロシア語系住民が多いか少ないかがはっきり分かれるという点です。都市部ほどロシア語系住民の割合が高く、農村部にはあまりいません。また、職場においては自分と同じ言葉を話す人を採用したがるので、職種によって母語が分かれる傾向にあります。鉄道や工場で働く人にロシア語系住民が多いです。

そのほか、ラトヴィア語やロシア語による現地のメディアやSNS上の、言語に関する言説も分析しています。

――堀口先生は「ロシア語系住民」という言葉をよく用いられていますが、それはなぜでしょうか。

堀口准教授 「ロシア語系住民」という言葉は、「ロシア語を母語とする住民」という意味で使っています。ロシア語を母語とする人々は、必ずしも民族的にはロシア系に限らないからです。ロシア系以外で、ウクライナ系、ベラルーシ系、ユダヤ系、ポーランド系の中にもロシア語を母語とする人々はいます。また、先祖代々ラトヴィアに居住していた人、ソ連時代にラトヴィアに移住した人、両親が別々の民族的出自の人等、一概に「ロシア人」として括るにはあまりに多様な背景を持ち合わせています。彼らの共通点は「ロシア語が母語である」の一点に尽きるので、「ロシア語系住民」という言い方にしています。

また「ロシア人」という言葉を使うと、ロシア(連邦)にいるロシア人との区別がつきにくくなりますが、ラトヴィアに居住しているロシア語系住民の多くは、自分たちがロシア(連邦)にいるロシア人とは別物であり、よりヨーロッパ化しているという自己認識を持っています。

ロシアのウクライナ侵攻を受けて

――2022年のロシアによるウクライナ侵攻以降、先生のご研究にも影響はありましたか。

堀口准教授 一つは、学会の中でもロシア中心の世界観が揺らぎ、もっとウクライナのことを知るべきだ、という潮流が強まったことです。それまでの学会ではどうしてもロシアやロシア語のことを中心に考える「大ロシア主義」とでも言うべき風潮があったかもしれませんが、ウクライナ侵攻によって、「大ロシア主義」からの脱却が図られ、ウクライナやその他ロシア以外のロシア語圏・スラヴ語圏が注目されるようになりました。

もう一つは、国際的な研究者コミュニティの間でも「政治的分断」が見られるようになったことです。例えば、ポーランド等の西側諸国で出ている学術誌や学会発表の場からはロシア・ベラルーシの大学に所属する研究者は締め出されてしまい、辛うじて「所属なし」の個人研究者としてのみ、投稿や学会参加を受け付けるという事態になりました。また、研究者交流や留学生の交流も多くの場でストップしています。

――堀口先生は全学部生向けの初修外国語としてロシア語を教えておられますが、影響はありましたか。

堀口准教授 2022年の10月に、「日本における2022年度のロシア語」というタイトルで、京大で初修外国語としてのロシア語を学ぶ学生の現状について、ロシア語で論文を発表しました。意外にも、2022年時点ではロシア語を選ぶ学生は減っていないのですが、やはり彼らも複雑な思いを抱いているようです。印象的だったのは、「今ロシア語を勉強しているが、将来ロシア語で会話する相手がウクライナ侵攻の支持者だと悲しい」、「ロシア語を勉強しているということ自体、周囲からロシアを支持していると思われるのではないか」という声です。「○○という国が嫌いだから○○語を勉強する」ということは、(スパイ養成学校でもない限り)まず無いですよね。学生たちもロシアやロシア文化に対してある程度はポジティブなイメージを持っていたから、ロシア語を選んだわけです。にもかかわらず、そのイメージがすっかり覆されてしまいました。ロシア語を学ぶことはウクライナに侵攻しているロシアを支持することではない、ということを2022年度前期の最初のロシア語の授業の冒頭で学生たちに話しました。

また、全学部生向けの初修外国語なので、その中で将来的にロシア語を専門にする学生は決して多くないのですが、たまにロシア語圏への語学留学に関する相談を受けます。これまではロシア・ウクライナ・ベラルーシの大学が留学先として一般的でしたが、2022年以降、この3カ国への留学が全て難しくなってしまったので、留学先としてどこを勧めるべきか悩んでいます。今のところ、旧ソ連圏で中央アジアのカザフスタンや、ラトヴィア東部のロシア語系住民が優勢な地域をお勧めしています。

――「日本における2022年度のロシア語」というタイトルの論文をロシア語で発表された意図は何でしょうか。

堀口准教授 ウクライナ侵攻が始まって以降、何か自分にできることはないか、何か発信しなければ、という思いがありました。それで、日本でロシア語を教える者として、日本の大学におけるロシア語教育の現状について、ウクライナ侵攻の影響について発表することにしたのです。ロシア語で執筆した理由は、ロシア人研究者も含めた世界のロシア語研究者やロシア語教師に読んでほしいと思ったからです。

URAより

日本において「バルト三国」、およびその中の一国であるラトヴィアの知名度は決して高いものではないかもしれません。しかし、2022年のロシアによるウクライナ侵攻を受けて、この地域は「ロシア VS. 西側(NATO)諸国」の対立の最前線という位置づけで注目を集めるようになりました。実際、ウクライナ侵攻以前から、この地域における「ロシア語系住民」の問題は根強く残っていて、「主幹民族(エストニア人/ラトヴィア人/リトアニア人) VS. ロシア語系住民」という二項対立の構図に帰着しがちでした。

しかし、実際はそのような単純な二項対立の図式に収まるものでは決してなく、ひと口に「ロシア語系住民」と言っても、その実態は上記の通り実に多種多様です。堀口准教授の研究は、そうしたラトヴィアの実情を、丁寧なインタビュー調査を通じて明らかにしていくという点で貴重であり、言語に対する謙虚かつ真摯な姿勢無くしてできないものです。

また、ロシアによるウクライナ侵攻が及ぼした研究・教育への影響についてのお話も印象的でした。学生たちの「ロシア語を学ぶことでロシアの支持者と思われるのではないか」という懸念は、裏返せば言語と国家が否応なく結び付けて考えられていることの証左でもあります。この意味において、ロシア語とロシアの関係、ラトヴィア語とラトヴィア社会の関係はパラレルであり、言語と民族、文化、国家、社会との結びつきを考える上で数々の示唆を与えてくれるものとなるでしょう。

こうした状況において、言語学者・ロシア語教師としての立場からすぐに声をあげよう、何らかのアクションを起こそうという堀口准教授の姿勢に、人文学者としての矜持を感じました。

(構成:横江智哉)

堀口 大樹
人間・環境学研究科 准教授

東京外国語大学大学院博士後期課程修了。日本学術振興会特別研究員PD(筑波大学)、岩手大学人文社会科学部准教授を経て現職。専門はバルト語学・スラヴ語学。

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