Biographies of Kyoto University's Personnel
京大人間図鑑
Vol.26

合田 典世 人間・環境学研究科 准教授

所属する京都大学人間・環境学研究科の教員紹介ページにおいて、合田典世准教授は学生に向けてこう語りかけています。

「ラテン語の格言 ”verba volant, scripta manent.”(「言葉は飛び去るが、書き言葉はとどまる」)が端的に示す通り、文学の構成要素である文字の発明は、時空的距離をも一気に超える「メディア革命」でした。印刷化、電子化など文字を取り巻くメディア的趨勢を根本的に考えるとき、20世紀初頭のモダニズムと言われる時代の作家たちをスルーするわけにはいきません。 お話、物語という以前に、“literature” がまずもって “letters” (文字)であることの意味について、「現実」を「文字」を介して「言語化」「表象化」するということの意味について、徹底的に考え抜いた人たちです。その問題意識はメディアにまみれて生きる現代人と無関係ではありえず、たとえば、LINEのスタンプで遊ぶ私たちは、文字テクストの世界を豊かに拓いた作家たちの感性を継承しているとさえ言えるのかもしれません。テクストとして残された痕跡をなぞりながら、時空を超えて他人の生を生き直す――それは「オワコン」どころか、人間がずっと求めてやまないVR体験です。フィクションという営為の意味を、共に考えてみましょう。」

合田准教授が20世紀初頭のモダニズム文学と現代にあふれるメディアに共通性を見出すその背景にはどういった研究の視座があるのか、インタビューでお伺いしました。

合田 典世
人間・環境学研究科 准教授

言葉自体を見る文学研究

――フィクションという営為の意味を考え直す。文学研究におけるとても大きなテーマだと思いますが、先生は具体的にどういった方法でそれに迫ろうとされているのですか?

合田准教授 文学研究には色々なスタイルがあります。最近は特に、歴史的な文脈にあてはめて作品を理解しようとするものがよくみられ、それは作品を取り巻く文化的・社会的・政治的言説を作品がいかに反映しているか、を論じます。もちろんそういうことは理解しておかなければならないのですが、文学という芸術を「言説」のひとつとして扱う立場を私自身はとっていません。文学をそれ以外のものと並べたときに、似ているところ以上に、違うところを見なければ、少なくとも芸術論にはならないのではないか。作品がなぜこういう「形」をとっているのか、というのが芸術研究の究極的な問いだと考えています。文学に関して言えば、言葉の向こう、つまり言葉が指している「内容」ばかりを見ていると、言葉自体、つまり書き方の面白さといった芸術性が見えなくなってしまいます。言葉がテクストの上でどういう風に動いているのか、どのように世界を表象しようとしているのかを見極めることは、結局、言葉とは何か、人間とは何か、という問いを考えることなのだと思います。とりわけ文学研究において「神は細部に宿る」は真実で、小さな発見が大きいビジョンにつながるような、ミクロがマクロに通じるような研究を目指しています。

――対象とする作品に真摯に向き合うということは、まずはテクスト自体と対峙するということになると思うのですが、そうではないアプローチが主流になっているということなのでしょうか。

合田准教授 テクスト自体と対峙するというアプローチ(ニュー・クリティシズム)は、作家の人生と結びつけて論じるような印象批評へのカウンターとして20世紀前半に出てきた文字通り「新しい」批評だったのですが、今やむしろ「古い」と言われます。というのも、それ以降、学問の学際化に伴い、文学というものを特別なものとみなさずに、他のものと同等に扱う、一種の「民主化」の流れが出てきます。それによって作品を取り巻く周辺情報は豊かになりました。実際、こういうアプローチは「勉強している」という実感が得やすいです。一方、言葉自体、テクスト自体を見るというアプローチは、言葉への感受性や語学力、大げさに言えば作家に伍する芸術的感性がモノを言うので、ハードルが高いというのはあると思います。

読むことの創造性

――後者のアプローチは読みの解像度、精緻さが問われるという意味でも難しい、ということでしょうか。

合田准教授 そうですね。学生さんを指導していても、言葉を素通りして「あらすじ」レベルで止まってしまう例がよくあります。読んだテクストからなんらかの核心的な発見をするというのは、まさに言うは易く行うは難し。論文を書こうにも、下手すると何も見つからなかったので何も言えない、ということにもなりかねません。私が卒業した京都大学の文学部では、そのような精読に基づいた発見を重視しており、学生時代にその精神を徹底的に叩き込まれました。しっかり読み込んだからこそ出てくるものがない限り、何を言おうと黙殺されるという世界でした(笑)。

――合田先生による翻訳と改題「すべて媒介(メディウム)されたものたち――ジョイスを読むということ」(『英文学論評第94集』、2022年)の著者、フリッツ・セン(Fritz Senn)氏について先生が書かれていることを思い出しました。ジョイス研究を牽引する彼について、「流用(appropreation)によってオリジナルを超える創造性を発揮している」と述べられていることが印象的でした。

合田准教授 彼は第一線の研究者ですが、大学などの学術機関には所属していない「アマチュア」なのです。彼自身がよく強調するように、アマチュアとは本来、「愛する者」という意味です。学界における “Publish or Perish” 的業績主義とは無縁で、好きなものを好きなように追求しながら、際立った独創性を発揮されています。また、英語ネイティブではないスイス人として、文学を読むにあたって非ネイティブは有利であるとおっしゃっています。言葉を読み飛ばさない、つまり「言葉の向こう」でなく「言葉自体」を見ることができるからです。たとえば日本の英語教育では、ネイティブ信仰がいささか過剰に見られますが、「日本人として」英語と触れることの意味をもう少し考えるべきではないでしょうか。

そもそも英語教育も含めて一般的に、アウトプットが偏重され、「読む」ということが軽視されているように思います。まず、読むことが「受け身」の行為だという広く蔓延した考え方があります。しかし、自分をいったん脇に置いて、相手を理解しようとすることは、受け身どころかすぐれて能動的な行為でもあります。「自分ならこう言うけど、この人はこう言うんだ」と自分と相手の違いを意識することにもなりますから、書くときと同じ頭の使い方をしているとも言えます。その意味で、読み書きは表裏一体です。呼吸と同じで、よく吸わないことにはよく吐けない、逆も然り、なわけです。

ヴァージニア・ウルフは「本はいかに読むべきか」というエッセイで、「自分が書いているかのように読め」と言っています。文学に限らず、対象が何であれ、ちゃんと理解するにはそれくらいの姿勢で望まないといけないのですね。私も授業で「自分でもこの表現ができたか」という視点で読むように、と学生に伝えています。それは書く力にもつながります。言語能力を技能ごとに切り分けて扱う趨勢は見直す必要があるでしょう。

この問題は、「クリエイティブ」とは何かという問題にも連続しています。個性や主体性が重視される現代ですが、創造とは、本当にゼロから何かを生み出す「能動的」な行為なのでしょうか? 人間が何かを創造するとき、そこでは何が起こっているのか。それはウルフに言わせれば、“nature” が介在してくる、つまり主体のコントロール外にある “obscure” なプロセスです。同じく有名なモダニスト詩人、批評家のT・S・エリオットは、作品は個性の表出ではなく、作家は媒体にすぎない、と言っています。最近、サザンオールスターズの桑田佳祐まで同じことを言っていました。こういう、主体がすべてをコントロールできるという科学主義、統計主義では見えない領域は、まさに芸術や芸術研究の領分です。

モダニズム文学と現代、そして多様な表現形式

――いま取り組んでいるのはどんな研究ですか?

合田准教授 まず、文字テクスト表象という視点から、ウルフとジョイスを中心としたモダニズム文学をより精緻かつ具体的に理解するための基盤形成に取り組んでいます。文字言語/テクストというメディア的条件が、人間を取り巻く「すべて」を表象しようとする試みとどのような関係にあるのかを考察しつつ、モダニズム文学の芸術性に光を当てなおすことを目指しています。

こうしたメディア・コンシャスなアプローチをとることで、モダニズムの射程をより広く捉えることも可能になります。第一次世界大戦後、「荒地」となったヨーロッパに花開いた一大メディア革命がモダニズムで、その精神やそこで培われた感性は、形を変えて現代にも息づいています。最近の研究でも言われるように、“make it new”、要は既存のものを刷新するのがモダニズム精神なのだと広義に捉えれば、1920年代のエリート主義的なイメージに埋もれがちなモダニズムの「ポップ」な様相もよりよく見えてきます。文学の枠を超えて、映画、漫画、アニメなどの大衆文化にも考察を広げているところです。

実際、その頃は現代のコンテンツにつながる様々なメディアが出てきた時期で、例えば映画のモンタージュやフラッシュバックの手法がモダニズム文学と共通している、などというのは教科書的常識です。アダプテーション研究も盛んですが、競合メディアを前に、モダニストたちが追求した文字テクストの可能性は、もっと掘り下げる価値があると思っています。 ちなみに、ウルフは映画の草創期のエッセイで、映画の「アート」ができていないうちに「テクノロジー」が生まれてしまった、と言っています。これは核心をついているなと思います。CGなどの「テクノロジー」が発達し、メディアミックス花盛りの現代でも、その産物が「アート」たり得ているかというのは、文化の維持・継承という点で重要な問いだと思います。

――合田先生が英文学だけではなく、その他の表現形式のものについても論じているのはそういった背景があるのですね。

合田准教授 私の問題意識の中心は、言葉です。言葉で何ができるのかを考え抜いたのがモダニズム文学で、それは言葉以外の表現形式への関心にもつながります。ただ「言葉以外」といっても、映画も漫画もゲームもポップミュージックもお笑いも、やはり言葉は切り離せません。テクスト読解訓練を長年積むと、パターン認識力が鍛えられるせいか、対象が変わってもある程度読み解けるようになります…というか、せずにいられなくなります。最近だと『SLAM DUNK』にどハマりしまして(笑)。映画をきっかけに原作を読み、「沼」から抜けられない状態です。ジャンルを問わず対象にフラットに接する姿勢は、特に若い世代の文学研究者には、多く見られるようになっていますね。こういう一見カオスな状態から、新しいものが生まれてくるのだと思います。

――先生の場合は研究対象以外の作品も、とても「深く」鑑賞されているのだと思います。

合田准教授 対象が何であれ、我ながら読み方は一貫しているなあと思います。最近は、コンテンツの読解マニュアルのような本も増えてきましたが、『SLAM DUNK』みたいな巨大なコンテンツだとファンも多く、プロの評論家も顔負けの鋭いコメントによく出くわします。誰でもネットで発信できる現在、プロとアマの垣根は無効化しつつあるのかもしれません。もともと日本人の潜在的リテラシーは高いのだと思います。また、先ほどの「愛する者」としての「アマチュア」の話にもつながりますが、本当に好きな対象を前にすれば、私が普段指導するような作品研究の姿勢が、自然と発揮されるのだとも思います。

実は私の特技はモノマネでして(笑)。意図して観察したりはしないのですが、接した人の真似が、ふとできるようになっていたりします。ミクロなところ、細かいところから対象の本質をつかむ。そういう意味ではモノマネも、本を読んで何かを論じようとすることも、共通しているのかもしれません。ただ論文を書こうとすると、色々な思惑が生じるのでモノマネのようにスムーズにはいかないのですが(笑)。

URAより

インタビューで言及されたウルフの論考「本はいかに読むべきか(How Should One Read a Book?)」の解題において合田准教授は、「ウルフにおいて読書は、一種の総合格闘技である」と書いています(「翻訳と解題『本はいかに読むべきか』」『英文学評論第95集』、2023年、P.41)。

我々の読む力は衰えていないか?読むという行為自体について、それは本来どういうものなのか、またその重要性を十分に認識しているか?合田准教授が提示するこれらの問いが心に残ります。

「テクストの上で言葉がどう動いているか」というフレーズがインタビュー中に何度か出ました。これは「細部に本質をみる」という合田准教授のアプローチをよく表しています。言葉で何ができるかを徹底的に追求したモダニズム文学と、情報があふれ、文学を含む芸術もまたその一部として消費されることもある現在の状況は、断絶していない。創造的で深く豊かな「読み」こそが、その連続性を支え、また新たな展開をも可能にしうるということを合田准教授の研究は示唆しています。

(構成:藤川二葉)

合田 典世
人間・環境学研究科 准教授

The University of Dublin, Trinity College M.Phil. in Anglo-Irish Literature、京都大学大学院文学研究科博士後期課程修了。専門はイギリス・アイルランド文学。

  • 合田 典世 |京都大学 教育研究活動データベース

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